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香川県丸亀市
 ~立ち止まる坂と瀬戸内の涼風編~

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

もうかなり以前のことになりますが、高松から松山へ向かう特急電車の中から、小高い山を覆う高い石垣とその上にそびえる天守を持つ城を見ました。いつか行ってみたいなぁと思っていたのですが、ようやくその願いを叶えることができました。

岡山駅から乗り込んだのは、あの日と同じ松山行きの特急電車。児島駅を過ぎ、いくつかのトンネルを抜けると、鮮やかな海の風景が目に飛び込んできます。瀬戸大橋を通るのもずいぶん久しぶりですね。青く穏やかな瀬戸内海と島々の風景は美しく、下を通る船の姿に不思議な感じを覚えたのも以前の記憶の通りでした。そんな風景もあっという間に通り過ぎ、電車は今回の目的地である香川県丸亀市に到着しました。

丸亀市は人口およそ10万人の、香川県第二の都市です。

みなさんは「丸亀」と聞いて何を連想しますか? おそらく多くの人があの有名なうどんチェーン「丸亀製麺」を思い浮かべたのではないでしょうか?
・・・が、それは大きな間違いです。丸亀製麺の発祥は兵庫県で、なんと丸亀市内には店舗が一軒も存在しないのです! 香川県は 「うどん県」として有名ですから、丸亀の店だと思っていた人は、なんだか裏切られたような気分になったのではないですか(笑)
あっ、でもリンスタの授業を受けている生徒のみなさんは、丸亀製麺を思い浮かべることはないですよね? 日ごろの学習にしっかり取り組んでいるのならば、うどんではなく「丸亀うちわ」を思い浮かべたはずです。

丸亀うちわは伝統的工芸品にも指定されていて、いまや全国の竹うちわの大部分を生産している特産品です。そういえば、丸亀うちわにはこんな有名な歌があるのをご存知でしょうか。
「伊予竹に 土佐紙貼りて あわ(阿波)ぐれば 讃岐うちわで 至極(四国)涼しい」
丸亀うちわは、伊予=愛媛県の「竹」と土佐=高知県の「和紙」を阿波=徳島県の「糊のり」で貼り合わせてつくるのです。それを踏まえて四国すべての地名を盛り込んだこの歌は見事ですよね。
地域に根付いた技術や職人のつながりを生かした産業のことを地場産業といいますが、丸亀うちわは、まさに四国を代表する地場産業といって差し支えないでしょう。今回は訪問していませんが、市内には「丸亀うちわミュージアム」という施設もあり、伝統の技を見たり、うちわづくり体験ができたりするようですね。

 丸亀駅を出て、まずは海のほうに向かいます。
駅から5分ほど歩くと潮の香りが微かすかに漂ってきます。すると道の先には大きな燈籠が見えてきます。高さ5m以上もある立派な燈籠は「太助たすけ燈籠どうろう」と名づけられています。この燈籠は、丸亀の繁栄の歴史の象徴です。

江戸時代は、各地に関所が設けられていて、人々の移動が制限されていたと思っている人も多いと思います。しかし、「社寺参詣(神社やお寺へのお参り)」という目的であれば通行手形が発行され、庶民でも遠方へ旅することが許されていたのです。そのため、三重県の伊勢神宮を目指す「伊勢詣で」や、ここ香川県の金刀比羅ことひら宮ぐうを目指す「金こん比羅ぴら詣でもうで」は、当時の庶民の間で大ブームとなっていました。もちろん、そんな遠方への旅を気軽にできるわけではないので、おそらく一生に一度の大イベントとして、これらの旅が楽しまれていたのでしょうね。
全国各地から金比羅詣でに来る人々は、船で瀬戸内海を渡ってやってきます。その参詣客が、最初に足を踏み降ろした玄関口こそが、ここ丸亀港だったのです。「金比羅参りは丸亀から」と謳うたわれるほどで、たくさんの参拝客を乗せた船が、この太助燈籠を目印に丸亀の港へ入ってきたのです。
ちなみに「太助」という名は、燈籠の建設に際して最も多くのお金を寄進した江戸の豪商・塩原太助に由来します。遠く離れた江戸の人々がお金を出し合ってわざわざ建てたということ自体、どれだけ多くの人がこの港を利用していたかという何よりの証拠ですね。
金比羅詣でによる丸亀の繁栄は、前述の丸亀うちわとも関わりがあります。
海を越えてようやく丸亀港に降り立った旅人たちですが、金刀比羅宮にはここから約12キロもの道のりを歩かなければなりませんでした。少し暑い季節ならば、「熱中症対策」が必要になります。大きめのうちわがあれば、暑さをしのぐために扇ぐだけでなく、日傘代わりに使うこともできますよね。
そして、参拝を終えて帰路につく旅人たちにとっては、金比羅さんに行ってご利益をいただいてきたことをアピールする参拝記念のお土産にもなります。朱色で「丸金」の文字が書かれた丸亀うちわは、参詣客のマストアイテムとして爆発的に売れ、やがて日本一の生産量を誇る伝統産業へと発展していったのです。

さて、いよいよ本日のメインイベントである丸亀城へ向かいます。松山行きの特急電車から見たあの城をようやく訪ねることができると思うと、とっても胸が高鳴ります。

太助燈籠から南へ向かい、予讃線の線路の下をくぐると、目の前には「通町」と大きく書かれたアーケードが見えてきました。きっと丸亀の中心とも言える商店街なのでしょう。
しかし、アーケードの中に一歩足を踏み入れると、そこには他の地方都市の商店街と同じようにとても静かな、静かすぎる風景がありました。長く続くアーケードの両側にはシャッターが目立ち、通りを行く人の姿もあまり見かけません。他の地域と同じように、地方の商店街というのは活気がなくなっているのでしょうね。そんなことを考えながらアーケードを抜けると、目の前にあったのは全国的にもよく知られているあのディスカウントストアが!
これも商店街に人がいない理由の1つなのかもしれないですね。

気を取り直して先へ進んでいくと、目の前には小高い山が立ちはだかります。視線を上に向けると、その先には下の写真の光景が飛び込んできます。石垣が何段も積み重なっていて、その一番上に白い天守を戴いただく、その威風堂々とした姿に私の足はしばらくの間止まってしまいました。

広い道を渡って左に折れて堀沿いの歩道を進み、堀にかかる橋を渡ります。大手二の門をくぐると、右側には、立派な大手一の門が見えます。このまっすぐに進めない仕組みは、以前のブログ(長野県上田市 ~城下町に息づく智略の遺伝子編~)でも紹介しましたよね。侵入する敵のスピードを落とし、三方向から攻撃をするための〝枡形ますがた〟という仕掛けです。早速目に飛び込んできた城らしい情景に、私の期待感はさらに高まります。
しかし、一の門を入って先に進んだ私の目の前には、下の写真の見上げるような長〜い急坂が・・・。この坂は「見返り坂」といって、城の中心部に行くにはこの坂を上っていかなければならないのです。坂の角度は驚くほどでもないのですが、とにかく長い長い坂なのです。午前中だというのに、この日の気温はすでに30℃を越えています。ちなみに、「見返り坂」という名の由来は、「あまりの急坂に時々立ち止まって振り返りたくなる」ことだそうです。

意を決して一歩一歩上り始めますが、数メートル進んだだけであっという間に息が上がり、額から汗が吹き出してきます。救いなのは、たくさんの木々が生い茂っているため直射日光を浴びることがないこと・・・。でも、この気温の中ではそのありがたみも薄れてしまうようです。

ハァハァと言いながらようやく坂を上っていくと、右側に高い石垣が見えてきました。そして、坂を上り切ったところで見ることができたのが、下の写真の見事な曲線を描く高石垣です。

迫力満点のその姿に、私の足はまたしばらくの間止まってしまいます。
えっ? きつい坂を上ったから自然に止まっただけだろって? いやいやそんなことはありませんよ。この石垣が見たくてここに来たわけですからね。感動でしばらく動けなくなるのはあたりまえじゃないですかぁ・・・💦

石垣に見とれていたのもつかの間。先を見ると、先ほどの見返り坂よりもさらに急勾配の道が! たぶん滑り止めなのでしょう。道には何本もの細い溝が刻まれています。下の写真からも、その急坂の様子がわかっていただけると思います。

ここで引き返すという選択肢はないので、再び意を決して急坂を上っていきます。立ち止まると先に進めなくなりそうなので、ゆっくりと、一歩ずつ、しかし確実に歩を進めていきます。
坂を上っていて思い出したんですが、算数の小島先生は、勾配を緩和するために坂をジグザグに上っていくというワザを持っています。この急な坂、小島先生はどれだけ折り返しながら登っていくんでしょうね(笑) そんなことを考えていたら、ちょっとだけ苦しさが和やわらいだ気がします。小島先生、ありがとう!
息が切れ切れになりながらたどり着いたのは三の丸です。少し開けた空間があり、北の方向には展望スペースのようなところも見えます。でも、ここで休んでいるわけにはいきません。まだ、二の丸、そして本丸への道が続いているのです。
石垣の間の道を進んでいきます。道がまがっていますので、おそらくここも枡形の跡でしょう。かつては立派な門が設けられていたはずです。ここの道も、まあまあ急な坂です。最後にあった短い階段を上ったところで私のライフはゼロになってしまいました(笑)
先を見ると休憩スペースがあり、飲み物の自販機もあります。ライフとともに、持参したペットボトルの水もゼロになっていたので、本当に助かりました。ここでしばしの間ライフの回復を図り、いよいよ本丸、そして天守に向かったのでした。

江戸時代から残る「現存天守」は全国に12しかありません。その中で最も小さいのが、この丸亀城の天守です。もちろん貴重なものであることは間違いありませんので、観覧料を支払って中に入っていきます。
昔の姿をとどめる天守には急な階段があるのですが、この丸亀城の階段も壁をよじ登るがごとく急なものでした。外から見ると三層に見えた天守ですが、中は二層の構造になっています。そのため、特に最初の階段は長く感じました。二つ目の急階段を上り、ようやくたどり着いた最上階からは、先ほど通ってきた瀬戸大橋など、見事な景色が広がっていました。でも、その風景以上に嬉しかったのは、吹き抜ける涼しい風でした。さわやかな風に吹かれていると、ここまで登ってきた足腰の疲労が癒いやされていくようです。

天守から出ると、ようやく周囲を眺める余裕が出てきました。ここまでは、とにかく登ることだけに集中していましたからね。本丸にも少し広い場所があり、四隅には展望スペースが設けられています。北側の展望スペースからは瀬戸大橋や瀬戸内海の島々が見え、南側には讃岐平野が広がっています。
風景を楽しみ、二の丸へと下っていきます。ここからも眺望を楽しむことができ、南東の方向に見えたのが下の写真の飯いい野の山やまです。

なんとなく見覚えがあるなぁと思ったのですが、丸亀製麺の店内にこの山の写真が飾ってありました。飯野山は「讃岐富士」とも呼ばれているのですが、その名の通りシルエットは富士山に似てますよね。

ん? でもここって讃岐平野ですよね。地図を見ると、平野という割には、平らな土地の中にこのような低い山が点在しています。その代表が、この綺き麗れいな形をした飯野山なのでしょう。でもなんで山がたくさんあるんでしょうね??
本家の富士山は火山活動によってあのような形になりました。ですから飯野山も昔の火山なのかなと思ってしまいますが、どうやらそうではないようです。調べてみたところ、次のようなことがわかりました。
太古の火山活動で、地下から固まったとても硬い岩の塊かたまりができました。その後、周囲の比較的もろい土砂や岩が、雨や風によって長い年月をかけて削られていき、硬い芯の部分だけがその場に残ってこのような山々ができたのだそうです。ちなみに、これらの丸くて低い山々は「おむすび山」とか「おにぎり山」と呼ばれているそうです。地元には、その昔「おじょも」という大男が、おむすびを作るように手で泥を握ってこれらの山を作ったという伝説も残っているそうです。そんな話を聞くと、山がなんとなく可愛らしく見えてきます。

絶景と風を満喫したら、あとは下りです。・・・が、急坂というのは上りよりも下りの方が膝にくるのですよね。疲れのせいで膝が震えて力が入らなくなる状態を「膝が笑う」と言いますが、私の膝は「爆笑」しています。転がり落ちないよう慎重に一歩ずつ坂を下っていき、ようやく見返り坂の下まで降りてきました。昔の侍たちは、こんな坂を日々上り下りしていたんですね。そう思うと、たった1回だけで音ねを上げている自分が情けなくなってきました。

先ほどは気づかなかったのですが、大手一の門の先に白い塀に挟まれた道が続いています。先へ進んでいくと、下の写真の門が現れました。

この門は「玄関先御門」といい、この先には藩主が生活し、政治を行っていた屋敷があったのです。
えっ? ちょっと待ってください。

・・・ということは、お殿様や重臣のみなさんは、あの心臓破りの「見返り坂」を毎日ハァハァと言いながら上り下りしていたわけではないってこと!?
考えてみれば、お城というのは「平時は麓ふもとの御殿で生活と政治を行い、山頂の城郭は敵が攻めてきたときの要塞ようさい」として使うのが一般的です。考えてみればあたりまえなのですが、全身汗だくで膝を爆笑(?)させながら坂を往復してきた私としては、「あの苦労は一体・・・」とがっくりせずにはいられなかったのです。

城を出て丸亀駅に向かいます。少し歩いたところで振り返り、再び丸亀城を見上げます。苦労して登り、そして下ってきて見上げた丸亀城は、登る前よりもずっと愛おしく、魅力的に見えたのでした。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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