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~長野県長野市
  激闘と寂寥 川中島編~

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

前回のブログの続きです。
松代の静かな城下町を抜けると、住宅地に入り、さらにその先には立派な石垣と大きな門、それに続く木の橋が見えてきました。真田十万石の居城、松代城です。真田信之がこの城に入城したのは1622年のこと。以来、明治まで約250年間にわたり真田家の居城でした。長野市では、江戸時代の姿をより忠実に再現しようと、長期的な整備計画が進められているそうです。最初に見えた太鼓門たいこもんや、その反対側にある北不明門きたあかずもんは、2004年に復元されました。建物が再建されると訪れる人も増えるでしょうね。松代の城下町と組み合わせれば、よい観光資源になりそうです。
石垣と土塁に囲まれた本丸に入って先に進んでいくと、下の写真の石碑がありました。写真ではわかりにくいかもしれないですが〝海津城址かいづじょうし〟と刻まれています。「あれ? ここは松代城じゃないの?」と思った方もいるかもしれません。実は、松代城という名になったのは、江戸時代の1711年のことなのです。

海津城は武田信玄によって築かれた城でした。築城の目的は、もちろん北にいるライバル上杉謙信に対しての備えということです。現在では少し離れていますが、当時は千曲川がこの城のすぐ北を流れており、これが天然の堀の役割をしていたそうです。その水を利用して堀をめぐらせることで、堅固な要塞になっていたのでしょう。上杉への前線基地ともいえるこの城を守っていたのは、武田四天王の1人とされる高坂弾正でした。そして1561年の8月に上杉軍がこの地に侵攻し、それをきっかけにあの有名な川中島の戦いが始まるのです。
本丸の土塁の上から西の方角を見れば、上杉謙信が陣を敷いた妻女山さいじょさんがはっきり見えます。当然、上杉軍からも海津城がよく見えるでしょう。下の写真の正面に見える山が妻女山ですが、写真で見てもその距離がとても近いことがよくわかると思います。

さて、川中島の戦いについては後ほど詳しく触れることにして、北不明門から松代駅に向かうことにします。下の地図を見る限り、この地には鉄道は通っていないようですが、2012年までは長野電鉄の路線があり、松代駅はその主要駅でした。1922年に開通したこの路線は、千曲川の西側を走る国鉄(現在のしなの鉄道)に対し、東岸の地域を結ぶ目的で建設されました。千曲市の屋代駅から飯山市の木島駅までの路線は河東線かとうせんと呼ばれ、東京の上野駅からの直通列車が松代駅にやって来た時期もあったのです。しかし、モータリゼーションの進行や沿線の人口減少のため利用客が減少し、2012年3月31日限りで廃止になってしまいました。鉄道を使って、松代から県庁所在地の長野駅に向かうには、屋代駅か須坂駅を経由して遠回りをする必要があります。どう考えてもまっすぐ長野駅へ向かうバスのほうが便利ですよね。そう考えると、廃止もやむを得ないのかなと思えます。開業当時から建っている旧松代駅の駅舎はそのまま残っており、重い木の扉を開けて中に一歩足を踏み入れると、そこだけ時間が止まったような、ひんやりとした静寂に包まれます。切符売り場の窓口の跡を眺めていると、当時の賑わいが幻のように浮かんできます。「駅」を名乗るバス停も、松代の玄関口としての誇りを守り続けているのかもしれませんね。

バスに乗り、向かったのは典厩寺てんきゅうじ。ここには、武田信玄の弟、武田信繁のぶしげが眠っています。信繁の官職名が「左馬助さまのすけ」、別名を「典厩」といったため、この寺の名前になりました。

2026年は、NHKの大河ドラマ「豊臣兄弟」で、秀吉の弟秀長がとりあげられていますよね。「秀長が長生きしていれば豊臣家は滅びなかった」などと言われるように、兄秀吉を支える名補佐役だったと言われる人物ですが、私も昔からこの人物にとても興味があって本もいくつか読んでいたので、大河ドラマに取り上げられたのはちょっと嬉しかったですね。
武田信繁も、兄信玄を陰日向となって支え続けた補佐役でした。信玄が父を追放して武田家の当主になったときも、真っ先に兄を支持し、一族の結束を固めたといいます。しかし、信繁は川中島の戦いの激戦の中で命を落としてしまいます。信玄は信繁の遺体を抱いて号泣したと言われ、敵だった上杉謙信もその死を惜しんだそうです。信繁が亡くなって4年後、信玄の長男であり、武田家の跡継ぎである義信が謀反むほんの疑いで幽閉ゆうへいされます。もし信繁が生きていたら、二人の間に入り、絶妙なバランスで父子の破綻はたんを防いだのではないかと思うのです。

静かにたたずむ信繁の墓碑に手を合わせます。武田家滅亡へのカウントダウンは、彼がこの地で命を落とした瞬間に始まっていたのだ・・・そう思わずにはいられないほど、彼の死は武田家にとってあまりに大きな損失だったのです。「信繁が長生きしていれば武田家は滅びなかった」・・・のかもしれません。
典厩寺からは徒歩で次の目的地に向かいます。15分ほど歩くと、いよいよ決戦の地、八幡原はちまんばら古戦場に到着します。下の地図で「川中島古戦場跡」となっているのがその場所です。

実は、川中島の戦いは5回くり返されています。しかし、小説やドラマの題材にもなってよく知られているのは、1561年の第4次合戦です。
先に動いたのは上杉謙信でした。1万3千の兵を率いて越後からやってきた謙信は、あえて武田方の海津城を素通りし、妻女山に陣を敷いたことは前述しましたね。これが8月16日のことです。
一方の信玄は2万の兵を率いて、8月24日に長野盆地西方の茶臼山ちゃうすやまに布陣します。信玄が布陣したのは、妻女山西方の塩崎城という説もあるそうです。上の地図を見てもわかる通り、茶臼山だとちょっと遠い感じもしますよね。塩崎城ならば、妻女山を東西から挟むことになりますから、こちらのほうが史実ではないでしょうか。あくまでも個人の感想ですが・・・。8月29日になると、武田軍は海津城へ移動します。そして、10日あまりの間、信玄と謙信とのにらみ合いが続きます。
この膠着こうちゃく状態を打破しようと信玄がとった作戦が、有名な「啄木鳥きつつき戦法」です。
軍師・山本勘助かんすけの策とされるこの作戦は、全軍を二手に分け、夜陰に乗じて妻女山の謙信を背後から叩き、驚いて山を下りてきたところを、八幡原で待ち構える本隊と挟み撃ちにする・・・という見事な計画のはずでした。
しかし、謙信は一枚上手だったのです。海津城から立ち上る炊飯の煙がいつもより多いことに気づき、武田の動きを察知します。
鞭声粛々べんせいしゅくしゅく よるかわを渡る〟・・・謙信は馬の口に猿ぐつわをませ、ひづめには布を巻いて、一切の物音を消して進軍したといいます。夜のうちに密かに山を下り、霧が立ち込める千曲川を渡って、信玄が待つ八幡原へと迫りました。
夜が明け、八幡原を覆っていた深い霧がスーッと晴れたとき、信玄の目の前に現れたのは、逃げ出してきたはずの上杉軍ではなく、抜き身の刀を掲げた謙信の精鋭部隊でした。信玄の「しまった!」という心の叫びが聞こえてきそうですね。そして、あの一騎打ちへと激戦が始まったのです。

上の写真は古戦場に置かれている信玄と謙信の一騎打ちの像です。謙信が馬上で刀を振り下ろし、信玄が軍配でそれを受け止めるという迫力満点な姿は「これぞ戦国時代!」というもので、この像を前に胸を熱くする人も多いでしょう。でも、これって事実なんですかね?
数万の軍勢がぶつかり合う大混戦の中で、大将どうしが、まるで示し合わせたかのように一対一で向かい合うなんてことが起こるのでしょうか? 謙信が、おそらく厳重に守りを固めているであろう武田の本陣に近づくことも、信玄が軍配一枚で刀を受け止めたというのも、よく考えるとかなり難しいことのように思えます。あまりにドラマティックなこのシーンは、江戸時代以降に書かれた軍記物語による演出である可能性も否定できません。しかし、この銅像を見上げていると、真実かどうかはどうでもよくなってくる自分もいます。たとえ実際の一騎打ちがなかったとしても、この八幡原という狭い空間で、二人の武将が命を削るような知略の限りを尽くして戦ったことだけはまぎれもない事実なのです。

さて、川中島の戦いは武田・上杉のどちらが勝利者となったのでしょうか?
「両軍合わせて数千人の死者を出した引き分け」であるとか「決着はつかなかった」と言われることも多いようですが、個人的にはこう思っています。
武田信繁をはじめ、軍師山本勘助など、信玄の右腕たちが次々とこの地で命を落としました。しかし、先に撤退をしたのは上杉軍のほうです。また、その後の北信濃は武田が支配することになり、海津城も武田の拠点であり続けます。戦国時代の戦いは、やはり領土が大きな目的ではないかと思うのです。そう考えると、この戦いは、領内に侵攻してきた上杉軍を武田軍が撃退したということにもなるのではないでしょうか。つまり、川中島の戦いは武田が勝利者であるというのが私の結論です。もちろんこれは個人的なものですから異論はあるでしょう。ぜひみなさんも、歴史の激戦地に立って自分なりの「答え」を探してみて欲しいですね。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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