~長野県長野市
幕末の孤高と昭和の愚行編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
長野駅前を出発したバスは、一旦北へ向かって市街地をぐるっと回り、長野県庁を右に見ながら南へと進んでいきます。犀川を越え、国道18号線との交差点で長い信号待ちを終えると、車窓には「川中島古戦場」の文字が見えてきました。武田信玄と上杉謙信が激突したあまりに有名な舞台ですが、今回の目的地はさらにその先。ここはあえて一度「素通り」して先を急ぎます。千曲川を渡れば、いよいよ真田十万石の城下町・松代です。
真田十万石と書きましたが、この松代は有名な「真田幸村(信繁)」とは直接の関係はありません。
真田幸村には、信之という名の兄がいました。関ヶ原の戦いの直前、この兄弟の運命は2つに分かれます。これを「犬伏の別れ」といい、父の昌幸と幸村は石田三成率いる西軍に、兄の信之は徳川家康率いる東軍に味方することになりました。これは、どちらが勝っても真田の家系が絶えないようにするためだったと言われています。結果はご存じの通り徳川の勝利に終わり、やがて信之がこの松代の領主となったのです。
松代は、長野駅から南へ10㎞ほど離れた場所に位置しています。現在は長野市の一部となっていますが、1966年に合併されるまでは松代町という独立した自治体でした。
街に入ると「松代」の名がつくバス停が続きます、どこで降りようかなと思案していたのですが、「松代八十二長野銀行前」という長い名が気になって、気づいたら降車ボタンを押していました。
このバス停は、今年の1月いっぱいまでは「松代八十二銀行前」という名でした。八十二銀行が長野銀行と合併して八十二長野銀行になったため、バス停の名称も変更になったのだそうです。
ちなみに、八十二銀行という名も、その由来がちょっとおもしろいんです。普通に考えたら「82番目の銀行」なのですが、そうではありません。長野県にはかつて「第十九銀行」と「第六十三銀行」がありました。この2つの銀行が合併するときに、「19+63=82」になったのです。

バスを降りて東に向かい、真田家の墓所がある長國寺を目指します。松代の街を訪れたのですから、まずは〝お殿様〟にご挨拶をしなければいけませんよね。ただし、拝観には予約が必要なので門のところで一礼しただけで次の場所へ向かいます。
やってきたのは「旧前島家住宅」です。ここは、松代の武家屋敷の中で最も古い年代のものだそうです。前島家は、真田家が松代に来る前から代々仕えている家柄で、関ヶ原の戦いのあと、和歌山県の九度山に蟄居させられた真田昌幸・幸村父子の供をした方もいるそうです。
門を入ると右側には池のある庭園があり、その奥に玄関があるのですが、そこには下の写真のように立派な雛飾りが置かれていました。

驚いたのは、家の中に色鮮やかな雛飾りがいくつも置かれていることです。写真の右のほうにもその1つが写り込んでいるのがわかるでしょうか。なんでこんなにたくさんの雛飾りが置かれているのかを、誰かに聞いてみたかったのですが、なぜか周囲には人がいません。こういう建物には、たいていボランティアの人がいて話を聞けるのですが、それらしき方の姿もありません。耳を澄ませてみると、奥の部屋の方からはわずかに会話をする声が聞こえます。話の内容まではわかりませんでしたが、なんとなく近所のおじいちゃんおばあちゃんの茶飲み話のように聞こえます。お邪魔をしては申し訳ないので声をかけることはせず、そのまま立ち去ることにしました。調べてみたところ〝松代でひなまつり〟というイベントが開催されているようで、1ヶ月間にわたって文化財施設、公共施設、商店などにたくさんのお雛様が飾られているのだそうです。
次の目的地に向かうため南へ進みます。途中にはバス停もあったので、バスも通るような道なのですが、交通量はそれほど多くありません。しばらく歩くと左に祠のようなものがあったので近づいてみると、説明書きがあり、そこには〝佐久間象山蟄居の跡〟と書いてありました。
さらに進んで右に折れ、住宅の間の道を右に左に折れながら進んでいきます。しばらく歩くと川に突き当たったので、右に折れて川沿いの道を進んで橋を渡ると、その奥に目的の場所が見えてきました。右手には資料館のような建物、左手の建物の先には鉄柵の扉があります。この扉の先にあるのが、目的地の〝松代象山地下壕〟です。
第二次世界大戦末期の1944年、本土決戦を目前にした当時の軍部は、驚くべき計画を立てました。皇居、大本営、政府機関などを、この松代の地へ移転させようとしたのです。ちなみに大本営というのは、天皇のもとに置かれた、陸海軍の最高司令部のことです。
でも、なんでこの松代だったのでしょう?
その1つは、ここが海岸線から遠いことです。陸軍は本土決戦を目論んでいましたので、上陸してくるアメリカ軍がすぐにたどり着けないところを選んだわけですね。また、ここの山々は非常に硬い岩石でできていました。ここなら、どんな強力な爆撃を受けても中にある各施設は無傷でいられると考えたのです。
そもそも本土決戦というのは日本全体が戦場になるということですよね。この時期の国民たちは日々の食べ物にも困るような生活をしていたはずです。また、戦場に送られて命を失った人や、空襲で命を失った人もたくさんいたはずです。そんな中で、さらに国民を犠牲にするようなことを画策し、自分たちは莫大な予算を投じて巨大な穴を掘って逃げ込もうとした…。これを大いなる「愚行」と考えるのは私だけでしょうか。

受付で名前を書くと、「そこにあるヘルメットをかぶって中に入ってください」とのこと。実は私、頭のサイズがちょっと大きめなのです。入らなかったらどうしようと思いましたが、幸いサイズの合うものが無事に見つかって一安心。前に並んでいた二人連れの男女のあとに続いて、いよいよ壕の中に入ります。正直に言うと、一人で入るのはちょっと怖いなぁと思っていましたので、一緒に入る方がいてよかったです。
一歩中に入ると、空気はひんやりと冷たく、肌をなでます。鉄柵の扉を閉めると「キーッ…」という不気味な音が響きました。その音は、まるで令和の時代に生きる我々を、昭和の重い記憶の中に閉じ込めようとしているかのようです。
壕の中は、上の写真のようなゴツゴツとした壁が続いています。掘り進めた距離は約10キロメートル。わずか9ヶ月という短期間で完成させるため、ダイナマイトによる爆破と手掘りという壮絶な突貫工事が、24時間休みなしでおこなわれたそうです。そのような工事ですから、少なからず犠牲者も出たことでしょう。こんな「愚行」のために命を落とした方々が気の毒でなりません。
結局、計画の7、8割が完成したところで終戦を迎え、この地下壕が実際に使われることは一度もありませんでした。暗く冷たい地下壕の壁を見ていると、本当に馬鹿馬鹿しいとしか言いようのない計画をした当時の指導者たちへの怒りの感情が、ますます大きくなっていったのです。
地下壕を出て、次に向かったのは象山神社です。この神社に祀られているのが佐久間象山で、鳥居の前には下の写真の銅像が置かれていました。象山の名は、先ほどの地下壕の近くにあった「象山恵明寺」にちなんだものだそうです。

「あれ、佐久間象山って〝しょうざん〟じゃなかったっけ…?」
記憶が定かではないのですが、自分が学んだ教科書には「しょうざん」と書いてあった気がするのですが…
調べてみたところ、長野県の県歌「信濃の国」には、「象山 佐久間先生も 皆此国の人にして」という一節がありますが、ここの読み方は「ぞうざん」でした。どうやら、長野県の人たちは「ぞうざん」と呼んでいるようですね。現在では、教科書にも「しょうざん」と「ぞうざん」が併記されており、松代の人々が古くから「ぞうざん先生」と親しんできたこともあって、「ぞうざん」が主流になっているようです。
ただし、象山自身は「しょうざん」と言っていたという記録もあるようなので、私としては本人の意思を尊重して「しょうざん」と呼びたいと思います。
名前の話だけで長くなってしまいましたが、佐久間象山という人物について、少しだけ紹介することにしましょう。
幼いころから「神童」と呼ばれていた象山ですが、29歳のときに起こったアヘン戦争で、大国と思っていた清が西洋の軍事力に屈した事実を知り、大きな衝撃を受けます。そして、象山は独学でオランダ語を習得し、西洋の百科事典を読み解きながら、大砲の鋳造、ガラスの製造、さらには日本初の電信機実験までを成功させます。当時の武士の多くは「攘夷」といって、相手の実力も知らずに外国を倒せと息巻いていました。そう考えると、象山はとても現実的ですよね。そして、彼のもとには勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰といった、後の歴史を動かす若者たちが集まりました。
1854年、吉田松陰はアメリカへの密航を企てて失敗し、幕府に捕らえられます。師である象山のその責任を問われ、松代で9年間に及ぶ蟄居生活を強いられました。先ほど通った〝佐久間象山蟄居の跡〟はその時のものだったんですね。

捕らえられて取り調べを受けた象山は、役人に対して「私の頭の中にある知識は、日本という国にとっての計り知れない宝である。もし私を殺せば、日本は計り知れない損失を被ることになるぞ。それでも良いのか。」というようなことを述べたそうです。恐ろしくプライドが高い人でもあったんでしょうね。ちょっと近寄りがたい感じもします。でもその言葉からは、国を守るという使命感を強く感じることもできます。周囲からどう評価されようとも、自分の目標や信念に向かい行動するという、まさに〝孤高の人〟です。ただし、彼のことを理解できない人も多くいたでしょうね。攘夷を唱える人々からは、象山の思想や行動は「西洋かぶれ」と見られてしまいました。そして攘夷派の武士によって暗殺されてしまうのです
象山神社には、象山を中心に吉田松陰や勝海舟、坂本龍馬らが一堂に会した像が置かれています。象山に学んだ人物が、その後の日本を動かしたんですよね。象山は幕末の日本に光を灯した人物であると言えるのではないでしょうか。
幕末の若者に希望の光をもたらしてくれた佐久間象山。
昭和の日本を闇の中に押し込めようとした松代象山地下壕。
松代には、この両極端な歴史が同じ空気の中に溶け込んでいました。
さて、この後は松代城に向かいます。それはまた次回のブログでお伝えするのですが、その途中で見つけたものを最後に紹介させてください。
松代は、昔の街並みが残されているところです。下の写真は、なんと現役の小学校なんです。こんなところまで、街の雰囲気を壊さないようなくふうがなされているんですね。ちなみに、校庭には象山先生の像も置かれていました。

小学校の壁は新しくつくられたものでしょうけど、昔の屋敷や建物がそのまま保存されているというものあります。下の写真は、松代藩に仕えていた武士の屋敷の門なのですが、立派な姿をしてますよね。この家の主は、佐久間象山とも親交があったそうです。

この建物は〝旧白井家表門〟…なんと私と同じ苗字ではないですか!
そうなんです。実はここ、私のご先祖様の屋敷なんです! ……もちろん嘘ですけど(笑)
それでもなんとなく親近感は感じるもので、他の建物よりも立派に見えたのは身びいきというのでしょうかね。
ちょっと寄り道をしてしまいましたが、松代城に向かうことにしましょう。
でも、それはまた次回。松代城は、戦国時代のあのできごとと関わっていますのでね…。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
