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長野県須坂市
  ~「蔵のまち」に残る記憶編~

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

長野駅善光寺口のエスカレーターを下った先に、地下へと続く入り口があります。「地下鉄の入り口みたいだな」と思って先に進んでいくと、そこには本当に駅がありました。
地下鉄というと、政令指定都市レベルの大都市にしかないというイメージがあるのですが、長野市の人口は約36万人ですので、それらの都市には遠く及びません。地下鉄があるのはちょっと不自然な気もしますね。
実はここ、長野電鉄という地方私鉄の駅で、地下を通ってはいるものの地下鉄というわけではありません。
1970年代の長野駅前の地図を見てみると、JR(当時は国鉄)の駅前に、もう1つ駅があることがわかります。

昭和の高度成長期、長野市中心部は交通渋滞が深刻な問題となっていました。その原因の1つが、街の中心部を南北に貫き、何本もの道路を遮断していた長野電鉄の線路でした。特に、長野駅から善光寺下駅へと続く区間は、混雑時に数多くの電車が往来することで、いわゆる「あかずの踏切」が発生し、都市発展の大きなボトルネックとなっていたのです。この問題を解決するためにおこなわれたのが、長野駅と善光寺下駅の間を地下化する工事で、1981年にこの地下駅も使用を開始したのです。広大な線路跡地は「長野大通り」という広い幹線道路となって、長野市中心部は生まれ変わったのでした。
見た目は近代的な地下駅なのですが、やはりそこは地方の私鉄です。切符売り場の前にはワゴン販売のようなものがあり、農産物や餅、名物の信州そばなどが売られていました。もちろん自動改札などというものはなく、ICカードも使えません。改札を通って正面にあるホームへの階段もなんとなく急になっていて、ホームの幅も狭いのか、やけに電車が大きく見えます。停車している電車も何となく見覚えがあるように感じられるのですが、これらは皆かつて首都圏で走っていたものの再利用です。要するに〝中古車〟ということですね。今回はこの〝中古車〟に30分ほど揺られて、「蔵のまち」として知られる須坂に向かっています。

千曲川を長い鉄橋で越えた電車は、須坂駅のひとつ前の日野駅を出ると右に左にカーブを切りながら進んでいきます。車窓を見ていてわかったのですが、どうやら上り坂にかかっているようです。その坂を上りきって平坦なところに出ると、そこが須坂駅でした。どうやら、日野駅と須坂駅の間は20mほどの標高差があるようです。なぜここに突然上り坂が現れるのか、地図を使って確認してみましょう。

上の地図を見てください。
須坂の町の北には松川、南には百々川どどがわという2つの川があり、東から西へ流れて千曲川に流れ込んでいることがわかります。東のほうには山々が連なり、西から東に向かうにつれて標高が高くなっていることも読み取れます。川が流れていて、それに沿って緩やかな傾斜地がある。もうわかりましたね。須坂は〝扇状地〟にある街ということです。ただ、それにしては日野駅と須坂駅の間は、急に坂がきつくなった気もします。もしかすると、この部分は千曲川がつくった河岸段丘の名残なのかもしれません。

須坂駅に到着しました。
長野駅と同じように、ここのホームもあまり広くはないようです。それでも拠点の駅らしく、いくつかの車両が休む車両基地も隣接しています。階段を上って改札を出ると、そこには長野駅で見たのと同じようなワゴンが置かれており、やはり農産物などが売られていました。

それでは須坂の街を歩いていきましょう。下の地図に、訪ねた場所を記してありますので、こちらを見ながら読み進めていってください。

駅前から延びる道を東に向かって進んでいきます。東に進むということは、扇状地の上流方向に進んでいるということで、やはり緩やかな上り坂になっています。しばらく歩くと広い交差点があったので右に曲がります。そしてその先の広い交差点は、なんだか見覚えのあるような…。ここは何度か車を運転して通ったことがあるんです。西のほうから来てこの交差点を北に向かっていたんですね。たしかに、緩やかな上り坂だった記憶があります。車に乗っていると、自分で運転をしていたとしても、意外に細かな位置関係はわからないものですね。

さて、ここを左に曲がっていくと、下の写真のような古い町並みが現れます。

この道は「谷街道」と呼ばれており、現在の千曲市にある稲荷山宿から、長野県北部の飯山市を結ぶ街道でした。千曲川の西岸を通る北国街道に対して、千曲川東岸を通る街道だったわけですね。飯山市からは新潟県十日町に至る街道につながり、遠く日本海側の塩や海産物などの物資が多く運ばれていたのだそうです。またここは、昭和の時代には「須坂銀座通り」とも呼ばれていたそうで、その名からは須坂の繁華街だったことがうかがえます 。

古い町並みの入り口には、ちょっとおもしろいものがありました。
下の写真の建物の下のほうに置かれた石を見てください。丸っこい石が積み重なっていますよね。このような、建物の土台となっている石って、こんなに丸いものでしたっけ?

横にあった説明書きには、以下のようなことが書かれていました。
このような石積は須坂の街の各所で見られるもので、重箱にぼた餅を並べたように見えることから「ぼたもち石積み」と呼ばれています。川の上流から押し出されてきて丸くなった石を使い、つなぎ目を隙間のないように削ってぴったりとつけるという、優れた職人の技が必要な積み方なんだそうです。職人たちは、石をぴったりはめこむことを「とっつける」と言ったそうですが、現在はその「とっつける」を継承する職人はいないのだとか…。それほど手間のかかる技法を使う建物がいくつも見られるわけですから、須坂の街は豊かだったということですよね。

しばらく歩くと、古い建物も少なくなってきたので、今度は南へ向かうことにしました。地図を見ると細い道が多く、古い街並みが残っているのではないかと思ったのです。
広い道を渡ってその先に進むと、おもむきのある建物が並ぶ通りに入っていきました。そしてふと道端の街路灯を見上げると、そこには「劇場通り」という名前が記されています。「こんなところに劇場?」と疑問に思い、調べてみたところ、ここには「須坂劇場」という和洋折衷せっちゅうの立派な芝居小屋があったそうです。須坂劇場ができたのは1914年のこと。当時の須坂の街は大いに繁栄していたのでしょうね。この通りにもたくさんの人が行きかい、賑やかだったことでしょう。あの大スター美空ひばりさんも来演したことがあるのだとか…。この通りが、劇場という大きな求心力を得て華やかに輝いていたというのを、目の前の寂れた通りから想像することは易しいことではありませんでした。

劇場通りをさらに進むと、右側に雰囲気のある路地を見つけました。案内板には「青木屋小路こうじ」とあります。

上の写真のような白壁の蔵や古い建物に挟まれ、ひっそりとたたずむその小路は、一歩足を踏み入れると、まるで大正や昭和の時代にタイムスリップしたかのような静けさが漂っています。この小路の由来は、ここに古くからの商家である「青木屋」があったことから名付けられたとのこと。須坂の街には、このような「小路」がいくつかあるようです。それらを巡ってみるのも楽しいかもしれません。しばらく狭い小路の雰囲気にじっくりと浸り、再び歩き始めます。

地図を見ると、広い通り沿いに「旧小田切家住宅」「旧越家住宅」という2つの古い住宅があるのが目につきました。10分ほど歩いて、まずは旧小田切家住宅の前にやって来ました。門の中に入ってみたのですが、建物の入り口がどこにあるのかよくわかりません。人の気配もしないので、ここはまた後で訪ねるとして、とりあえず先に旧越家住宅のほうに行ってみることにしました。

門を入ると右手に建物の玄関があり、その奥には人影が見えました。思い切って玄関を開けてみると、そこには1人の男性が座っていて、「見学できますか?」と尋ねたところ、「どうぞどうぞ」と中に招き入れてくれたのです。そして、建物の中を案内してくださりながら、いろいろな話を伺うことができました。特に力を入れて説明してくださったのが、この建物のあるじで、「須坂の製糸王」と呼ばれたこし寿三郎じゅさぶろうのことです。彼は、先ほどの小田切家からこの越家に養子に入り、須坂の製糸業を大きく発展させた人物です。この須坂で製糸業がさかんだった理由はもうわかりますよね? 最初に、須坂が扇状地にあると書いたではないですか!

話を元に戻しましょう。越寿三郎は、単なる実業家にとどまりません。製糸業で大きな富を得た寿三郎は、その富を徹底して須坂のインフラや経済の基盤づくりへと還元しました。話を聞いているうちに、そのスケールの大きさに圧倒されていくのでした。
まず、製糸業をはじめとする地元の産業が円滑に資金を調達できるよう、1895年に上高井銀行を設立しました。この銀行がのちにいくつかの変遷へんせんを経て、「八十二銀行」へとつながっていきます。この銀行のことは松代のブログ(~長野県長野市 幕末の孤高と昭和の愚行編~)でも書きましたよね。
そして、まだ電気というものが珍しかった明治末期には、近くの川の水の利を活かして信濃電気(後の中部電力の前身)を設立し、須坂の街や工場に安定した電力を供給しました。化学肥料を製造する信越窒素肥料(後の信越化学工業の前身)を設立し、蚕のえさとなる桑の栽培に役立てました。
また、また自分が教育を受ける機会に恵まれなかったという経験から、学校への寄付や学生への支援にも積極的でした。1926年には須坂商業学校(長野県須坂商業高等学校の前身)を開校させるなど、地域社会への貢献に惜しみない情熱を注いでいます。
さらに、須坂の高品質な生糸を、貿易の中心地であった横浜へスピーディーかつ大量に送り出すために鉄道を建設します。「河東かとう鉄道」というこの鉄道は、後に長野電鉄屋代線となります。松代で、廃止になったあの駅舎を見た、まさにあの鉄道ですね。

寿三郎は渋沢栄一とも深い交流があったそうです。「日本近代経済の父」と称された渋沢栄一から見ても、寿三郎の情熱と商才は本物だったのでしょう。床の間の壁には、渋沢から送られたという掛け軸がかけられていました。

昔の製糸工場の女工というと、悲惨な生活をしていたイメージがありますが、寿三郎は彼女たちの労働環境にも常に配慮を忘れず、健康管理のために病院を設立しました。須坂の街の繁栄は、彼がもたらした富と、人への温かい視線が築き上げたと言っていいのでしょう。正直、ここに来るまで越寿三郎のことは知りませんでした。歴史の教科書には載っていない偉人との出会いに、まだまだ勉強しなければいけないなと、街から学ぶことへの思いを新たにしたのです。

そうそう。もう1つ面白かった話がありました。それは、旧越家住宅の中にあった、下の写真の立派な仏壇です。見ての通り素晴らしい装飾で、これについてもいろいろとお話ししてくださったんですが、細かいことは失念してしまいました💦

では何がおもしろかったのかというと、この仏壇の裏側なんです。向こう側は縁側になっていて、そこの壁にこの仏壇がはめ込まれているような感じになっているんです。何のためにそんな形になっているのかというと、火事のときに仏壇を担いで、すぐに外に持ち出せるようにするためなんだそうです。こんな大きな仏壇を担げるんですかね?? 幸いなことに、今まで仏壇を担ぐことはなかったとのこと。現在の、特に都会では仏壇などないという家が多いと思いますが、昔の人はご先祖様をとても大事にしていたということでしょうね。

いやいやすっかり長居をしてしまいました。ていねいにお話をしてくださったこと、この場を借りて改めて御礼申し上げます。須坂が「蔵のまち」としての気品と、豊かな歴史の息遣いが色濃く残っているのだということを、深く納得することができました。
時計を見るとびっくり。思ったよりも長いことお邪魔をしていたようです。次の目的地もありますので、残念ながら旧小田切家住宅はあきらめることにします。きっとまた訪問する機会はあるでしょう。

さて、その目的地とは、5分ほど歩いたところにある塩屋醸造さんです。先ほど、車でこの交差点を通ったことがあると書きましたが、その目的はここで味噌を購入することでした。もう10年以上前になりますが、たまたま出会ったここの味噌がとてもおいしく、機会があるたびにここに来て購入をしていたのです。歩いてきたのは今回が初めてで、ようやく位置関係が理解できました(笑)

ところで、なぜ味噌を扱う店なのに「塩屋」という店名なのか不思議に思いませんか?
塩屋醸造さんの歴史を紐解くと、もともとはおよそ300年前に、山国である信州において大変貴重だった「塩」を扱う塩問屋として創業したのが始まりなのだそうです。その後、江戸時代に味噌や醤油の醸造をはじめ、現在にいたるまで伝統の味を守り続けています。

大好きな味噌を買って駅への帰途につきます。塩屋醸造さんがある通りも、とても素敵な街並みです。
駅に向かって歩いていると、右手に木々の生い茂った広い空間があるのに気づきました。その奥にあったのが、静かな境内に格式高い佇まいを見せる「墨坂すみさか神社」でした。地元では「芝宮しばみや」の愛称で親しまれており、毎年7月におこなわれる「須坂祇園祭」は、製糸工場の女工さんたちがとびきりのお洒落をして楽しんだそうです。
実はこの「墨坂」というのは須坂の地名の語源なのだそうです。千曲川の東側に広がるこの扇状地の傾斜地に、かつて「墨坂」と呼ばれる坂があり、それが街の歴史そのものになった…。日野駅から須坂駅へ向かう途中に電車がぐんぐんと上っていったあの坂や、駅から東へ歩くにつれて感じた緩やかな傾斜の記憶が、神社の名前と地名の由来によって、見事に地理的なパズルとして頭の中で組み合わさったのでした。

神社を後にし、緩やかな下り坂を歩いて、夕暮れ時の須坂駅へと戻ってきました。
できればもっと時間をかけてゆっくり歩きたかったなという思いを持ちつつ、ワゴンで売られている地元の農産物を眺めながら改札を抜け、再びあの〝中古車〟に乗り込んで、須坂の街を後にしたのです。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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