~宮城県多賀城市
宮城県の地名由来⑵「城」編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
前回のブログでは、宮城県の「宮」の由来として鹽竈神社と志波彦神社を紹介しました。今回は「城」の由来になる多賀城を訪ねてみることにします。
鹽竈神社から20分ほど歩いてやってきたのは東北本線の塩釜駅。駅前にはコンビニもあり、マンションも建っていて、周りの風景は郊外の住宅地の駅という感じです。駅の中に入ってみたところ、次の電車は約25分後。この時間の電車はだいたい1時間に2本のようです。このあたりは、大都市仙台の近郊ではあるものの、「やっぱり地方だなぁ…」と思うところですよね。塩釜駅の中も、自動改札はあるものの昔ながらの佇まいを感じるつくりで、もちろんエスカレーターなんてありません。古びた階段を上ってホームに上がり、コンビニで買ったコーヒーを飲みながらのんびり電車を待っていました。
ようやくやってきた仙台行きの電車に乗って1駅。降り立ったのは国府多賀城駅です。仙石線にも多賀城駅があるのですが、こちらは多賀城跡の遺跡からはかなり離れているので、もしみなさんが訪れるときは気をつけてくださいね。
国府多賀城駅は2001年に開業した比較的新しい駅です。地元の要望により設置された駅ですが、その駅名の通り、国の特別史跡となっている多賀城跡への玄関口という役割を担っています。新しい駅だけあって、先ほどの塩釜駅とは異なり、バリアフリー完備の近代的な設計となっています。駅の南口には、東北地方の歴史について学べる「東北歴史博物館」があるのですが、残念ながら今回はパス。本当は、博物館でいろいろと学んでから遺跡に行くのが正しいんでしょうね。次の機会にはぜひ訪問してみたいと思っています。

駅の北口を出ると、バス乗り場のあるロータリーがあり、右方向には住宅地が続いています。少し離れたところにはマンションも見えました。仙台のベッドタウンとしての開発も進んでいるようですね。ところが、左側には雑草の茂った空き地が広がっています。なぜこちら側は開発しないのでしょうね?
よく見ると小高い丘があり、ここにはかつて多賀城に赴任する国司の館があったのだそうです。この空き地は館前遺跡という、多賀城跡と同様に国の特別史跡に指定されている遺跡なのです。この空間があるため、多賀城跡に行くには少々遠回りをしなければなりませんでした。
駅から10分ほど歩いて、多賀城跡にやって来ました。駐車場も整備されているので、本来は車で来るのが正解なのかもしれませんね。日本各地の観光施設は、公共交通機関を利用すると行きにくいところも多いですから、駅から歩いて来られるこの遺跡は便利な場所にあると言っていいでしょう。駐車場の奥にはガイダンス施設があり、ここで多賀城について学ぶこともできます。私はある程度予習してから来ているので、ここはスルーしました。駐車場の脇を通るときに、古代人の衣装を着た一団がバスに乗り込んでいくのが見えたのですが、彼らは何だったのでしょう? わざわざコスプレをして遺跡を見学したんでしょうかね???
多賀城が設置されたのは西暦724年とされていますので、奈良時代の初めごろということになります。ここは、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国の国府・鎮守府が置かれた、古代の東北における政治・軍事の中心地でした。ちなみに、国府とは地方行政の中心地、鎮守府とは軍事上の拠点のことです。
当時の多賀城は、首都である平城京、九州の拠点である大宰府と並ぶ「北の都」としての重要な役割を担っていました。900m四方の城郭には、政庁をはじめとする多くの建物が並び、役人だけでなく兵士や商人などたくさんの人々で賑わっていたことでしょう。
丘の上に見えてきたのは、下の写真の〝多賀城外郭南門〟です。ここは多賀城の正門にあたり、ここから南へ向かう広い道が伸びていたようです。私もここから多賀城の城郭内へ入っていきます。

門を入ってすぐ右側のほうに、小さなお堂のような建物がありました。格子状になっている扉のなかを覗いてみると、下の写真の石碑があったのです。一見どこにでもありそうな石碑なのですが、それにしては建物で覆っていてとても大事にされているように見えます。横にあった説明版を読んだところ、なんとこの石碑、国宝に指定されているのだそうです!

この石碑は〝多賀城碑〟といいます。
多賀城碑が建立されたのは西暦762年ということですから、奈良時代の中期くらいでしょうか。石碑には、多賀城が陸奥国府と鎮守府を兼ねた要衝であることや、多賀城から平城京や大宰府までの距離などを書いた文字が刻まれています。
多賀城の衰退とともに、いつの間にか多賀城碑は土中に埋もれ、その存在は長い間忘れ去られていました。江戸時代初期、仙台藩の2代藩主だった伊達忠宗は、多賀城碑の発掘を命じました。そして多賀城碑は約900年の時を超えて再び日の目を見ることになったのです。その後、水戸黄門の名で知られる徳川光圀は石碑の写しを取り寄せて、学者に詳しく調査させ、この石碑が本物であることを証明しました。
多賀城碑を世間に広く知らしめたのが松尾芭蕉です。東北地方を旅した芭蕉は、『奥の細道』で多賀城碑を紹介しています。「1000年の時を経た石碑を目の前で目にすることができた。生きている喜びを感じ、旅の苦労をすべて忘れて、涙が落ちそうになるほどだ。」というようなことを書いているそうです。芭蕉には到底及びませんが、私も石碑を目にしながら悠久の時の流れに思いを馳せてみたのです。
多賀城碑と、その先にある遺跡との間には道路が通っています。多賀城碑のあるところから横断歩道を通るには50mほど迂回しなければならず、ちょっと不便です。外郭南門から横断歩道へ至る道はあるのですが、多賀城碑を見る人も多いと思うんですよね。遺跡の整備は少しずつ進んでいるのだと思いますが、ここは改善して欲しいですね。
道路を渡って階段を上ると、北へ続くまっすぐな道が伸びています。この道は政庁南大路とよばれていて、多賀城の中心となる政庁に至るメインストリートです。
下の写真は、南大路をしばらく進んでから後ろを振り返って撮ったもので、奥の方に外郭南門が見えます。もちろんこの道も復元されたものですが、路肩に築かれた石垣や、雨水を排水するための暗渠なども再現されていました。きっとこの道を多くの人々が行き交っていたのでしょうね。
ここで思い出したのは先ほど駐車場で見たコスプレの一団。あの一団にここを歩かせてみたら、意外にいい雰囲気になったのかもしれませんね。もしかしたらあの人たちも、古代の多賀城の雰囲気を再現するためにあのような衣装を着ていたのかも…。もう少し早く到着していれば、彼らがここを歩く姿を見られたかもしれません。そう思うとちょっと残念な気がしました。

先に進んでいくにつれて、少しずつ勾配が急になってきます。坂道は途中から緩い階段になり、終点近くはその階段も急になっていきます。階段を上りきったところは平坦な土地となっていて、ここには多賀城の中心施設である政庁がありました。政庁は、東西約103m、南北約116mの範囲を塀で囲んだ独立した区画になっていて、下の写真はその姿を再現した模型です。階段の下からはこれら建物群が見えないと思うので、階段を上り切ったときに突然政庁の建物群が現れたように見えたのではないでしょうか。古代の人たちに強いインパクトを与えた風景だと思うのですが、これも意図的に用意された演出なのかもしれません。

まず現れるのは南門跡です。残っているのは礎石(柱を支えるための石)だけですが、その配置や数からは、模型ではわからない実際の大きさを想像することができます。先ほどの外郭南門のように、当時は立派な門が築かれていたのでしょうね。南門跡を過ぎると、ここから政庁の内部に入っていきます。正面には、政務を執りおこなう正殿があります。先ほどの模型の中央にある建物ですね。その手前は石敷きの広場になっているのですが、石が中途半端に残っている感じで、とても歩きにくかったです。石敷きの先にあったのが正殿、その後ろには正殿の控室や書類などの保管場所として使われていたと考える後殿があります。下の写真は後殿から正殿のほうを見たものですが、どちらも当時の礎石が残されています。

南門から正殿までの距離や、正殿から左右の建物の跡までの距離を歩いてみることで、政庁の広さを確認していきます。そして、先ほどの模型や復元されていた外郭南門の色を参考に当時の姿を想像してみます。
朱塗りの大きな建物が整然と配置されていて、周囲には同じように朱く塗られた塀が見えてきます。さらに、先ほどのコスプレの一団をここに配置してみます。色とりどりの衣装を着た役人たちが忙しく立ち働いている様子も見えてきました。遺跡に来て、当時の様子を頭の中で再現してみるのはとても楽しいものなのですが、今回はその想像を補ってくれるものもあって、いつも以上に楽しむことができました。
高台にある多賀城跡からは、南西の方向に仙台の市街地を望むことができます。遠くのほうには、おそらく仙台市の中心部にある高層のビルもいくつか見えました。当時の多賀城からも、広い仙台平野を見渡すことができたはずです。北への備えをしつつ、この地域を支配する場所としては、これ以上の土地はないでしょうね。

2回にわたって、宮城県の「宮」の由来となった鹽竈神社と、「城」の由来となった多賀城について紹介してきました。「宮」と「城」のそれぞれを別に紹介してきましたが、何らかの関係はないのでしょうか? 2つが合わさって宮城という地名となっているのですから、何かつながりがありそうですよね。
調べてみたところ、多賀城と鹽竈神社には、次のような関係があったことがわかりました。
上の地図でもわかる通り、鹽竈神社は多賀城の北東の方向にあります。自然の法則などで吉凶を占う陰陽道では、北東の方角は邪気が入り込む不吉な方角とされていました。これを「鬼門」といいます。都市を建設したり、家を建てたりするときには、鬼門に魔除けが施されました。鹽竈神社は古くから東北地方を守ってきた神社ですから、古代日本における東北支配の最重要拠点多賀城を災いから守る守護神をしては、これ以上に強力なものはないでしょう。
また、前回のブログの地図を見ていただくとわかると思いますが、鹽竈神社は海に近く、その南側は谷になっていて、昔は海から続く入り江だったはずです。おそらくここには港があり、多賀城に向かう人や物資は、この港を経由していたことでしょう。そして、港を見下ろすように建っているのが鹽竈神社ですから、港を利用する人たちの信仰も集めていたと考えることができます。古代における船旅というのは、現在とは比較にならないくらい危険なものでしたからね。航海の安全を願って、神社を参拝した人も多かったのではないでしょうか。多賀城は政治や軍事の拠点として、鹽竈神社は人々の精神的な支えとして、その足下にある港は物流の拠点として、古代のこの地域を支えていました。つまり、「宮」も「城」もこの地の発展の歴史には欠かせないものだということです。
2回にわたるこのブログは、宮城よりも仙台のほうがよく知られている地名だということから始まったものでした。しかし、仙台の名は宮城に比べると歴史が浅いのです。仙台はもともと「千体」という字を使っており、現在仙台城が築かれている青葉山が「千体もの仏像がある山」だったことから名づけられたとされています。そして、1600年に伊達政宗がこの地に城を築くときに、「仙臺(仙台)」に改めました。つまり、古代からある宮城に対し、仙台は江戸時代以降ということになるのです。
このように考えると、仙台と比べてちょっと存在感が薄いと思っていた「宮城」という地名は、今も昔も東北地方の中心となっているこの県の名としてふさわしいのだと思えてきませんか?
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
