長野県長野市
~弥陀に惹かれて十八丁 後編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
長野駅から十八丁の参道を歩き、地形の面白さを体感しながら善光寺へと向かっています。

六丁碑付近からは、勾配が増してきたように感じます。
このあたりにはマンションも建っているのですが、下の写真はちょっとおもしろいデザインだと思いませんか?

3階より上はごく普通のマンションですが、参道に面した部分だけが、瓦屋根の和風デザインになっているのです。歩行者の目線に入る部分だけ、門前町の歴史的景観にトーンを合わせているというわけですね。長野駅からほど近いところですから開発も必要なのでしょう。でも、ただ開発をしただけでは、歴史ある門前町としての雰囲気も壊れてしまいます。上層階にはマンション居住者の日常が、下層階には観光客の非日常が同居しているというデザインは、開発と景観保全の両立を図ったものなのですね。ちょっとだけ視線を上げてみて気づいたこの風景は、現在の建築でありながら、なかなか趣深いものを感じさせてくれたのでした。
大門南交差点を過ぎると、いよいよ坂がきつくなってきます。それと同時に、両側の風景も参道らしさを増してきます。

大門町交差点を過ぎると、さらに歴史を感じさせる建物が増えます。右側にある銀行も、左側にある郵便局も、とても良い雰囲気を醸し出しています。
坂道も続いています。確認してみたところ、このあたりの400mくらいの区間が、最も勾配がきつくなっているところのようです。急に勾配がきつくなっているのは、扇状地であること以外にも理由があるんでしょうかね? 念のため調べてみたところ、「善光寺の東には断層があって…」ということが書いてあったのですが、この分野はあまり詳しくないので深く突っ込まないようにしようと思います💦
さらに進んでいくと、目の前には道の両側にある灯篭に挟まれた階段のような道が現れます。車はここで行き止まりとなって、左右の道に分かれていきます。あまり広い道ではないので、大きなバスは曲がりにくそうにも見えます。
ここからは、両側に宿坊が並びます。宿坊とは、寺院や神社の宿泊施設のことです。善光寺には39の宿坊があり、一般の観光客が泊まることもできます。ここに宿泊して精進料理をいただき、朝晩のおつとめをし、さらに写経などしてみれば、心が洗われて帰路につけるかもしれないですね。
その先に見えてくるのが仁王門です。
下の写真のように大きな門を見上げながら、ひとつ思い出したことがあります。以前のブログ(長野県飯山市 〜世界へひらく雪深き寺のまち編〜)で、旧飯山駅跡に置かれていた仁王像のことを書きました。あの黒くてちょっと顔の大きめな、あまり怒ってない(?)仁王像のことです。
1891年に起こった火災によって、当時の仁王門も焼失してしまいます。再建のための資金集めをしたのですがうまくいきません。そこで、「せめて仁王像だけでも」と製作されたのが、仏壇の街として知られる飯山の仏師たちの手による黒い仁王像だったのです。やがて大正時代になり、現在見られる仁王門と新たな像が再建され、役目を終えた旧仁王像は「生みの親」の地である飯山市に置かれているというわけです。
そうそう。あの黒い仁王像が善光寺参道にあったときには、仁王門がなかったわけですよね。当時の写真には、「野ざらし」の状態で参拝者たちを見下ろしている様子が写っていました。おそらく、門のなかにあるよりも顔がはっきり見えたでしょうね。少しだけ優しい顔になっていたのは、そのせいなのかもしれません。

迫力ある姿で力強く善光寺を守っている現在の仁王像ですが、実はちょっと変わっているところがあります。通常は向かって右側に口を開いた阿形、左側に口を閉じた吽形が置かれるのですが、善光寺の仁王像は、これが逆になっているのです。その理由を調べてみたところ、こんなことがわかりました。
昔は、一年で最も日照時間が短く、翌日から長くなっていく冬至が新しい年の始まりとされていました。その冬至の日に、始まりを象徴する「阿形像」に朝日があたり、終わりを象徴する「吽形像」に夕日があたる。そのように配置されたのが善光寺の仁王像なのだそうです。ちなみに、奈良の東大寺の仁王像(テキストに出てくる「金剛力士像」ですね)も、同じ配置になっているそうです。
せっかくなので、私も「左→右」の順にご挨拶をして門をくぐっていきます。
この先は仲見世通りといって、信州グルメなどが味わえるたくさんの店が並んでいます。食べ歩きを楽しみたいところですが、まずは参拝をしなくてはいけませんので、ここはグッと堪えることにします。
誘惑を断ち切ってさらに進むと、下の写真の巨大な「山門」がそびえ立ちます。楼上の格式の高さも見事ですが、ここでぜひ足を止めて、正面に掲げられた「善光寺」の額をじっと見上げてみてください。

これは〝鳩字の額〟と呼ばれており、「善光寺」3つの文字の中には5羽の鳩が隠されています。前回のブログに写真を載せた新幹線改札横のものと同じなのですがわかりますか? 「善」に2羽、「光」に2羽、「寺」に1羽います。さらに「善」の文字には、善光寺に縁の深いあの動物の姿が表現されていますよ。
そんな昔の人の遊び心を楽しみつつ山門をくぐると、その先には、1707年につくられた国宝の本堂が圧倒的なスケールで姿を現します。東日本最大級の木造建築と言われる高さ27mのお堂は、人の煩悩の数と言われる108本の柱で造られているそうです。また、本堂を上から見るとT字型になっているのですが、これは「撞木造り」という珍しい構造です。撞木とは、鐘をたたく小槌のことです。
寺院というのは宗派によってさまざまなものがあるというのが一般的です。歴史のテキストにも、比叡山延暦寺は天台宗、高野山金剛峯寺は真言宗といったことが載っています。しかし、この善光寺は、特定宗派の檀家を持たない「無宗派」の寺院なんです。男女や身分、宗派を問わず「誰でもウェルカム!」ということですね。だからこそ全国から大勢の参拝客が押し寄せ、その大勢の人々を一度に受け入れるために、これほど巨大で奥行きのある特別な構造が必要だったのでしょう。そして、その最も奥には、僧侶や住職ですら見ることが許されない「絶対秘仏」である御本尊様がいらっしゃるのです。

余談になりますが、実はこの善光寺、戦国時代にはあの武田信玄と上杉謙信が激しい争奪戦を繰り広げた場所でもあったのです。
1555年の第二次川中島の戦いでは、善光寺を味方につけた信玄が西の旭山城に兵を送り込み、それに対して謙信が東の横山城に本陣を構えました。この善光寺を文字通り東西から挟み込む形で、両軍は200日以上も激しく睨み合ったのです。
そして、戦火を避けるという口実で、信玄は御本尊や多くの寺宝を甲府(甲斐善光寺)へ移してしまいます。対する謙信も、前立本尊や貴重な仏具を、自身の本拠地である越後へと持って行ってしまいます。

信玄も謙信も、それぞれ自国に善光寺の神聖なパワーを迎え入れ、「自分こそが信濃の正当な支配者である」ということをアピールしたかったのでしょうね。戦国最強を争う2人が必死に奪い合うほどの権威を持つ地に立っているのだと思うと、ただでさえ威厳のある本堂の姿が、より大きく見えてくるような気がします。
参拝して、びんずるさんを撫で、本堂の横にある経蔵で輪蔵を一周してから、まるで導かれたかのように本堂の裏手にやって来ました。するとそこには、下の写真のような石塔があったのです。

前に立てられていた説明板には「松代藩真田家の古塔」と書かれていました。ここでも「真田」なんですね。旅人の自分に「信州と真田は切っても切れないもの」という事実からは逃れられないのだということを、無言の圧力で伝えているようです。
現在の本堂が建設されたときに、幕府から普請奉行(総責任者)を命じられたのは真田家。善光寺で数年に一度行われる一大イベント「御開帳」のシンボルとして本堂の前に立てられる、あの有名な「回向柱」も、江戸時代から現在に至るまで、ずっと旧真田領である松代の山から切り出されているのだそうです。
「一生に一度は善光寺参り」
駅から伸びる十八丁の参道、地形を活かしたアプローチ、親子の情愛を伝える絵解き、そしてこの地を陰で支え続けた真田家の存在。善光寺には、この信州という土地の「地理」「歴史」「文化」「人の想い」のすべてが集積しているのでしょう。十八丁を歩いてみて、善光寺そのものが「壮大な物語」ということがわかったような気がします。きっと私も、善光寺の御本尊様である阿弥陀如来に惹かれて来たのでしょう。
帰りは、古くからの繁華街である「権堂商店街」のアーケードを通り抜け、昭和の面影残る街並みを眺めながら長野駅へと戻りました。
18丁の道のりを自分の足で歩いたおかげで、地形の面白さも、門前町の景色も、そして真田との深いつながりも体感できた充実の1日となりました。
駅に着いたら、行きに後ろ髪を引かれた改札前の立ち食いそばを食べて、新幹線に乗り込むとしましょう。信州で訪れたいくつかの街の顔を思い出しながら…。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
