~愛知県瀬戸市
焼き物の代名詞編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
茶碗やお皿、湯飲みやカップなどのことを〝せともの〟と呼ぶことがあります。〝せともの〟は漢字で書くと「瀬戸物」になり、本来は愛知県瀬戸市で生産された焼き物のことをいうのですが、焼き物全般を表す言葉として〝せともの〟が使われているのです。つまり、愛知県瀬戸市は、日本を代表する焼き物の産地ということですよね。今回は、そんな瀬戸市を訪ねてみることにしました。 瀬戸市は、名古屋の東約20㎞のところにある、人口約12万人の都市です。下の地図からもわかるように、市の東側は山間部となっており、瀬戸市の中心部も南北の山に挟まれた川沿いに位置しています。

名古屋から瀬戸に向かうには、名鉄瀬戸線を利用するのが便利です。ただし、この路線を利用するときは要注意です。他の名鉄線はすべてJR名古屋駅地下の名鉄名古屋駅から乗るのですが、瀬戸線は名古屋市の繁華街に近い栄町駅から出ています。私も地下鉄に2駅ほど乗って栄町駅まで移動します。瀬戸線のホームに着くと、ちょうど多くの乗客を乗せた上りの電車が入ってきました。沿線は名古屋のベッドタウンになっているんでしょうね。折り返しの下り電車はもちろん空いており、のんびりと座って目的地を目指します。
栄町駅から30分強で終点の尾張瀬戸駅に到着しました。駅に隣接したコンビニで飲み物を買って、早速街歩きのスタートです。
瀬戸川に沿った道をしばらく進むと、陶器を売っている店が並んでいます。川にかかる橋の欄干には瀬戸焼のオブジェが飾られています。駅を出てほんのわずかで、早くも焼き物の街の雰囲気が漂ってきます。

まず向かったのは〝瀬戸蔵〟という施設です。1階では焼き物の販売をしていますが、さすがに重い焼き物を持って散策をするわけにはいかないのでここはスルーします。2階と3階はミュージアムになっているので、まずはここで瀬戸の焼き物づくりについて学ぶことにしましょう。 2階の入り口から入ると、まず現れるのが昔の尾張瀬戸駅の駅舎です。駅から出発して、昔の瀬戸の街並みをめぐることで、瀬戸焼の歴史に触れるという演出なのですね。下の写真のように、昔の瀬戸を走っていたレトロな電車も展示されていました。私も一旦電車の座席に腰掛け、尾張瀬戸駅に着いたという体で電車を降り、改札を出てみました。

再現されている町並みは、昭和30~40年代のもので、この頃が最も焼き物の生産がさかんだったのだそうです。再現された街の中には、焼き物づくりの施設や道具、作業場、窯などが再現されていて、当時の焼き物工場の様子を偲ぶことができるようになっています。
3階は、瀬戸での焼き物づくりの歴史が学べる展示となっています。展示の中には縄文時代の出土品などもありましたが、このあたりは瀬戸の焼き物とはあまり関係なさそうです。それでも、瀬戸での焼き物づくりの歴史は1000年以上もあるとか。1000年前といえば平安時代ですよね。おそらく最初の地図で見た山のどこかに良質の粘土を産出するところがあるのでしょうね。
長い瀬戸焼の歴史のなかで、「陶祖」として崇められているのが加藤藤四郎景正という人物です。鎌倉時代の人物である彼は、宋(中国)に渡って陶器の製法と釉薬を使う技術を学び、日本に持ち帰ったと伝えられています。釉薬というのは、焼き物の表面をコーティングしているガラス質の膜のことで、お皿や湯呑みがツルツルしているのは釉薬を使っているからです。また、江戸時代後期に磁器の技術をもたらしたのが「磁祖」とよばれる加藤民吉です。彼は、瀬戸の焼き物産業をさかんにするために、当時の磁器生産の中心だった有田などで製法を学びます。瀬戸に戻った彼は、白い素地に美しい藍色で絵付けをする染付磁器の生産を、苦労の末に確立させました。これによって瀬戸は、陶器と磁器の両方を生産できるようになり、様々な製品に対応できるようになるのです。明治時代になると、瀬戸の陶磁器は海外にも輸出されるようになります。瀬戸に来るときに乗ってきた名鉄瀬戸線は、もともとは陶磁器の輸送を目的に建設されました。
広いスペースに、各時代の焼き物を見ることができるこの展示はとても見ごたえのあるもので、すっかり陶磁器の世界に浸ってしまいました。
瀬戸蔵を出て、街の散策を続けることにします。
歩き始めてすぐに、末広町商店街と書いたアーケードが目に入りました。中に入ってみると、下の写真のように、なんとも昭和を感じるこの商店街です。昔は賑わったであろう長い商店街ですが、やはりシャッターの降りている店が多くなっているようです。商店街の賑わいを取り戻すため、様々な取り組みがされているようなのですが、私が訪れたこの日は人通りも少なく、とても静かな感じでした。それがかえってノスタルジックな雰囲気を醸し出しているのかもしれませんね。

商店街を抜け、緩い坂道を登って歩くことおよそ15分、右側の崖沿いに細い道の入り口がありました。この道は〝窯垣の小径〟と呼ばれており、下の写真のような塀が特徴的な道です。この塀は、窯で陶磁器を焼くときに使われた古い道具などを積み上げて築いたもので、これを窯垣というのです。

道沿いには、瀬戸焼のギャラリーなどもあり、焼き物の街らしい独特の風景を楽しみながらの散策は、とても素敵な時間でした。道にはずっと木が生い茂っていて涼しかったのも、この散策が心地よかった理由の1つでしょう。
さて、次の目的地を決めるために地図を確認したところ、「陶祖公園」と「窯神神社」という2つの場所が目に入ってきました。おそらくどちらも瀬戸の焼き物に関係する場所ですよね。確認してみたところ、陶祖公園は、その名の通り加藤藤四郎景正に関係するようです。彼の功績を称えるために建てられた碑は、陶製としては世界最大規模のものだそうです。一方、窯神神社は加藤民吉を祭った神社だとのこと。どちらも訪れてみたいスポットです。 …が、地図を見ると、どちらも坂を上った先にあるようなのです。ここ数日の街歩きで足には疲労がたまっています。坂を上って下りて、また上って下りてをくり返すのはちょっと厳しそうです。しばらく悩みましたが、駅に向かう方向にあって歩く距離が短くなりそうな窯神神社を選ぶことにしました。「伝統的工芸品としての瀬戸の焼き物の名称は瀬戸染付焼。その染付焼の技法を確立したのは加藤民吉。その人物を祀る神社は外せない…」などと妙な理屈で自分を納得させながら歩いていきました。
来た道を引き返すのもおもしろくないので、先ほどとは反対側の瀬戸川右岸の道を行くことにしました。しばらく歩くと、またアーケードが見えてきました。入り口には銀座通り商店街と書かれています。こちら側にも先ほどと同じような商店街があったんですね。「銀座」という名がついているくらいですから、きっとここもかつては賑わった商店街なのでしょうね。

上の写真のような通りを歩いていくうちにあることに気づきました。「あれ? この風景見たことがあるぞ…」と。しばらくしてその答えがわかりました。写真ではわかりにくいと思いますが、奥の方に有名な将棋棋士である藤井聡太さんの幟が掲げられています。藤井棋士がタイトルをとったときに、喜ぶ人々が集まる様子がテレビで流されていました。それがこの商店街で、藤井棋士は瀬戸市の出身だったんですね。テレビで見た商店街は人であふれていましたが、今日の商店街は写真の通りほとんど人通りがありません。その風景のギャップも、すぐに気づかなかった理由だったのでしょう。
商店街を抜けると右に折れ、少しずつ坂を上っていきます。坂の途中には、焼き物の工場もありました。勾配は徐々にきつくなっていき、息が切れてきた私の目の前に現れたのが、下の写真の絶望的な階段です。ここまで来て引き返すわけはいきませんので、意を決して階段を上っていきます。

途中で止まると心が折れそうなので、一気に階段を登ったその先には、下の写真のような不思議な形をした社殿を持つ神社がありました。このデザインは、焼き物づくりに使われていた丸窯を模したものなのだそうです。焼き物の街の神社にふさわしいデザインなのでしょうが、なんとなく違和感を覚えたのも事実です。社殿の横には加藤民吉の像もありました。

やっぱり陶祖公園にも行くべきだったかなぁ…とも思ったのですが、もうその体力は残っていません。おとなしく駅に戻ることにします。
振り返ってみると、社殿の向かい側に展望台が設けられていることに気づきました。最後に、ここに上って瀬戸の街を一望してみることにしました。

こうして見ると、思っていたよりもずっと山深いところにあるということが実感できますね。この山に挟まれた狭い土地から、日本各地へ、そして世界中に焼き物が出荷されていったのです。そして、瀬戸の名は焼き物の代名詞にまでなっていったのですね。
ところで、先ほどミュージアムで見た電車には「堀川」という行き先が掲げられていました。現在の名鉄瀬戸線に、そんな駅はありません。最初に書いた通り、瀬戸線の起点は名古屋の中心部に近い栄町駅です。 今度は、この「?」について確認するため、電車に乗って名古屋市内に戻ることにします。それはまた次回。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

