Blog & Column

リンスタ講師・スタッフによるブログ&コラム

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 白井亨
  4. ~東京都八王子市  移動した「桑都」vol.2編~

~東京都八王子市
  移動した「桑都」vol.2編~

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

前回のブログでは、八王子の街が移動したのではないかという「?」を見つけ、まずはその始まりとなったと思われる八王子城と元八王子町を散策してきました。そして、八王子城と元八王子の地名は、北条氏と関係があることがわかりました。今回はその北条氏が滅亡した後、現在の八王子の街がどのようにしてできていったのかについて探っていこうと思います。
…ということで、元八王子バス停からさらに東に進んで八王子駅を目指すことにします。

しばらくは住宅街のなかを進み、10分ほど歩いたところでやや広い道と合流しました。この道は陣馬街道といって、かつては甲州街道の裏道として利用されていた道です。ここからは道沿いに店舗も見られるようになり、さらに20分ほど歩いたところで見つけたのが下の写真の石碑です。

石碑には〝八王子千人同心屋敷跡〟と刻まれています。
北条氏滅亡後の関東を治めることになった徳川家康は江戸城を本拠地とします。そして、各方面への防備を固めていくのですが、甲斐国との境に近い八王子は、江戸城の西の守りとして重要視されます。家康は、旧武田家の遺臣たちを八王子に居住させ、その任にあたらせました。
そして、関ヶ原の戦いの後には、八王子の防備にあたる人数が1000人となったため〝千人同心〟とよばれるようになり、その千人同心の屋敷があったのがこのあたりだったのです。1000人もの人間が暮らすようになれば、1つの街ができますよね。どうやらこれが現在の八王子の元になったようなのです。
八王子千人同心の創設を家康に進言したのが、これもまた旧武田家の遺臣だった大久保長安ながやすという人物です。長安は、武田信玄にその才覚を認められ、金山の開発などの仕事をしていました。武田氏滅亡後は家康に仕えるようになり、やがて八王子を領地として与えられ、この地の発展に力を注ぎます。

石碑のあるところから先は、国道20号線を進んでいきます。片側2車線の交通量の多い道ですが、ところどころに歴史のありそうな古い建物が見られます。20分ほど歩くと人通りも多くなり、だいぶ町の中心地らしい雰囲気になってきました。そして、美術館のある建物の脇で見つけたのが下の写真の石碑です。

江戸幕府の直轄地となった八王子は、大久保長安によって整備が進められていきます。甲州街道沿いには、八王子十五宿とよばれた宿場町が成立し、その中心となったのがこの八日市宿でした。江戸時代の八王子宿は甲州街道最大の宿場だったそうで、その中心となっていたこの地は多くの旅人で賑わっていたのでしょうね。現在の八日市宿付近は、周辺に多くのマンションが建てられており、やはり多くの人が行き交い賑わっていました。
つまり、八王子には、前回紹介した城下町としての八王子と、今回の宿場町としての八王子の、2つの八王子があるのだということですね。そして、城下町だったところは元八王子となり、宿場町だったところが現在の八王子中心部となったのです。やはり最初の推測通り「八王子は移動した」ということですね。

ところで、15もあった宿場のなかで、八日市宿がその中心となっていたのはなぜなんでしょうね?
その「?」を解くためのヒントとなるのが、下の写真の標識です。この標識、なんとなく違和感がありませんか?

この標識があるのは国道20号ですから、左側に書かれている「新宿・立川」というのは特に不思議ではありません。問題は右側の標識です。一般的に、国道などの主要な道路が交わるところは、道が十字型に書かれており、横の道には左折または右折をした際の行き先が書かれているものですよね。しかもこの標識を見ると、今歩いているこの道も国道16号のように見えます。
気になったので、道を逆戻りして反対方向の標識を確かめてみると、やはり同じように2枚の標識が並んでおり、直進方向には大月(山梨県大月市)、右折方向には川越(埼玉県川越市)の文字が書かれていたのです。つまり、八日市宿のあったこの場所(下の地図の⇔の部分)は、国道20号線と国道16号線が重複しているということになります。

この道は片側2車線なのですが、合流する国道16号も国道20号もそれぞれ片側2車線の道です。しかし、写真の標識の通りだとすると、この区間では国道20号線方面に行きたいのならば左車線、国道16号線方面に行きたいのならば右車線と、それぞれ1車線ずつを走行しなければなりません。そうすると、両方向への車が交錯してしまうわけで、当然のことながら渋滞も発生しやすいのではないでしょうか。特に右折左折と続いてしなければならない国道16号線は、より渋滞が起こりやすいと思います。つまり、この道のつくりは自動車の通行を想定していないということです。おそらく江戸時代初期の宿場町整備の際に、何らかの意図があってつくられたものなのでしょう。

調べてみたところ、この道が整備されたのは江戸時代の初期、やはり大久保長安の手によるものでした。では、なぜ長安はこのような形の道にしたのでしょうか。今となっては不便なこの道の形状にメリットはあるのでしょうか?

東西方向の移動をする人と南北方向の移動をする人の両方がこの部分を通るわけですから、おそらく多くの旅人がここを通過したでしょう。もちろん当時は徒歩での移動ですから、この道の形が交通の障害になるようなことはありません。ここには4方向からの旅人が集まることになるわけですから、たくさんの人がここを通ったことでしょう。人がたくさん集まるところに宿場町があるわけですから、多くの旅人がここを宿泊地としたはずです。そうすると、宿だけでなく旅人を相手にする様々な店もできたのでしょう。もうわかりましたよね。八王子の繁栄のために、この道の形状はとても効果的だったということです。

八王子駅へ向かう道すがら、「桑都そうと」と書いた幟がいくつも掲げられているのに気がつきました。
山が近く平地が少ない八王子では、昔から養蚕がさかんだったそうです。江戸時代に宿場町として栄えた八王子は、その交通の便の良さから商業の街としても発展していきました。周辺の村からは繭や生糸、絹織物などが集まって来たそうです。そして、明治時代になると大規模な製糸工場が建設されます。当時の日本を支えたのは繊維産業です。八王子は日本の産業を支える都市の1つになったということです。養蚕に必要なのが桑の葉ということから桑都という名がついたのでしょう。
今回は訪問することができませんでしたが、市内には昔の製糸工場の建物や、群馬県桐生市のブログ(群馬県桐生市 分割された関東の西陣〟編)で紹介した〝のこぎり屋根〟の建物もいくつか残されているようです。現在の八王子は繊維産業の街ではありません。今の八王子の街の役割は、やはり東京のベッドタウンということでしょうね。
八王子は、城下町から宿場町、そして商業都市からベッドタウンへと変化し、街の位置まで変わっていきましたは、そんな八王子で、長い間変わらなかったものが繊維産業、つまり「桑都」なのでしょう。変化を続けてきた八王子だからこそ、ずっと守られてきた「桑都」を、都市の魅力発信の中心としてアピールしているのかもしれません。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

関連記事