
~東京都墨田区
大火と震災と空襲編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
前回のブログで紹介した吉良邸の最寄り駅となるのがJR両国駅です。この駅は、中央・総武線の各駅停車しか停まらない駅なのですが、下の写真のようにとても立派な姿をしています。この駅舎ができたのは1929年のことで、当時の両国駅は房総方面へ向かう列車の始発駅として賑わっていました。東京周辺の駅の中では、東京駅、上野駅、新宿駅、横浜駅、新橋駅に次いで収入の多い駅だったのだそうです。現在でも、電車が発着するホームの北側に、一段低くなったホームを確認できるのですが、これが始発駅だったころの両国駅の名残です。

さて、前回も書きましたが、両国と言えば相撲の町というイメージを持っている人も多いことでしょう。
両国駅の東口前には、下の写真のように横綱横丁と名付けられた通りがありますし、西口の国技館通り沿いには、いくつかの力士像も置かれています。隅田川沿いの柵には相撲の決まり手の絵がはめ込まれていますし、駅に隣接した〝両国のれん〟という飲食店街の中心には土俵が設置されています。国技館のある両国は、町全体で相撲の街をアピールしているんですね。

せっかくなのでもう少し両国の街を散策してみようと地図を確認したところ、駅の北のほうに「横

上の地図を見てもうお気づきだと思いますが、ここの地名は横〝綱〟ではなく横〝網〟だったのです!
日ごろからミスに気をつけようなんて偉そうに言ってるくせに、自分自身がとんだうっかり野郎でした💦
「えっ? もしかしてさっきの横丁も横網???」と思って写真を見てみたのですが、こちらは横綱でまちがいなかったです。これだけ相撲アピールをしているんですから横綱だと思いますよねぇ…。そう思いませんか? ねっ!
ちなみに、横網という地名の由来は、江戸時代のこのあたりは海苔の生産がさかんで、海苔を干すための網が横にずらっと並んでいたからなのだそうです。相撲とはこれっぽっちも関わりがありませんでした…。
横網町公園から国技館の北あたりにかけては、1919年まで陸軍の被服廠(軍服を製造するところ)がありました。被服廠が赤羽に移転した後、跡地が1922年に当時の東京市に払い下げられ、1923年7月から公園に整備するための工事が始まりました。そして、運命の1923年9月1日を迎えます。
1923年9月1日午前11時58分、首都東京を震度6の強い揺れが襲います。関東大震災の発生です。
昼食の支度で火を使っている家が多かったこと、能登半島沖に台風があって風が強かったこと、下町とよばれるこの地域には木造住宅が密集していたことなどの悪い条件が重なり、大きな火災が発生しました。火災から逃れるため、人々は広い空き地状態になっていたこの公園に集まってきました。その数40000人とも言われています。午後4時ごろになると、この公園にも火が迫ってきました。やがて火は、避難してきた人々が持ってきた家財道具に、次々に燃え移っていったそうです。さらに火災旋風(炎を伴ったつむじ風)が発生し、ここにいた人々を飲み込んでいきました。この地で亡くなった人の数は、なんと38000人…。震災直後の写真には、犠牲となった人々が折り重なるように公園の敷地を埋め尽くしている様子が写っています。
下の写真は、公園内に置かれていたものです。これ自体はこの場所にあったものではありませんが、おそらく炎や熱の状況は同じような状況だったのでしょう。鉄の柱までこのような姿になってしまうわけですから、人間はひとたまりもありませんよね。改めて関東大震災の恐ろしさを実感しました。

公園内にあるのが下の写真の東京都慰霊堂です。
震災後、ここには震災で亡くなった方の遺骨を安置するための納骨堂が建てられました。その後、犠牲者の慰霊のための施設として、1930年に建設されたのがこの施設です。当時は〝震災記念堂〟という名でした。

関東大震災から20年余り後、東京の下町地域は再び猛火に襲われます。
1945年3月10日、およそ300機のB29型爆撃機が東京上空に飛来します。いわゆる東京大空襲です。
アメリカ軍が使用したのは焼夷弾とよばれるもので、これは火災を発生させることを目的とした爆弾でした。 これにより下町地域は再び大火災に見舞われます。アメリカ軍は、より効果的に爆撃をするため、関東大震災での火災の状況を参考にしたと言われています。
一方、戦時中の市民に対しては「踏みとどまって消火活動にあたれ」という指導がなされていたそうです。これは、関東大震災の火災の教訓から「初期消火が大事」と考えられたからだということですが、大火災に対してバケツリレーなどの人力での消火活動など役に立たないでしょう。ただ、時代が時代だけにその指示に反することもできず、消火活動によって逃げ遅れた人も大勢いたそうです。東京大空襲では関東大震災を上回る犠牲者が出てしまいました。
震災記念堂は空襲でも焼け落ちることなく、亡くなった人々の遺骨はこの納骨堂に収められていきました。1951年には東京都慰霊堂と名称を変更し、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を慰霊する施設となっています。
横網公園内には、東京都復興記念館という施設もあり、こちらは震災と空襲に関する様々な資料が展示されています。
現在の横網町公園は人々の憩いの場になっており、この場所で多くの人がなくなったとは思えないような穏やかな時間が流れています。2025年は東京大空襲から80年目の年です。原爆の被害を受けた広島や長崎には、それぞれ市が運営する資料館があり、多くの人が訪れています。復興記念館にはいくつかの資料がありましたが、その内容は広島や長崎のものと比べるべくもありません。でも、ここを訪れて震災と空襲の記憶を辿ってみることは、それなりに意味のあることだと思いました。
慰霊堂で合掌し、西側の出口から駅へ向かおうと慰霊堂の裏に回ったのですが、なんとそこは屋外の喫煙スペースになっていました。囲いも何もないので煙草の匂いが充満しており、とても不快に感じながらそそくさと通り過ぎたのです。いくら建物の裏側とはいえ東京都が運営する公共施設なのですから、もう少し配慮があってもいいですよね。もしみなさんが横網町公園を訪れることがあったら、東側から入ることをお勧めします。
両国駅に向かう途中で見つけたのが旧安田庭園です。だいたいこういう庭園というのは入場料がかかるものですが、なんとここは無料! せっかくなので入って見ることにしました。

この庭園が築造されたのは元禄時代のことで、大名屋敷の中の庭園として整備されました。明治時代になると安田財閥の所有となり、その後東京都に寄贈されたのだそうです。関東大震災では、壊滅的な被害を受けたそうですが、その後復元されて、現在のような市民のための庭園となったのだそうです。背後にあるビルとの対比がおもしろい風景ですよね。ポカポカ陽気も相まって、とてものんびりした気持ちで庭園を散策したのです。
両国駅に向かう国技館通りの先には回向院がありますが、ここも大きな火災にまつわる寺院です。
1657年、明暦の大火とよばれる、江戸の町の大半を焼き尽くすような大火災が発生しました。この火災によって江戸城の天守が焼失し、その後再建されていないことはよく知られています。
回向院は、明暦の大火の犠牲者を供養するために建立されました。以前に訪れたことがあったため、今回はパスしたのですが、ここで興味深いのが江戸時代の盗賊鼠小僧治郎吉の墓です。鼠小僧というと、大名屋敷から盗んだお金を貧しい庶民の家に配ったという伝説が残されているのですが、どうやらあれは真っ赤な嘘のようです。ちょっとがっかりするかもしれませんが、盗んだお金は博打などに使っていたようですよ。
回向院では、寺院の修復費用を捻出するために勧進相撲がおこなわれており、これが現在の大相撲につながっているのだそうです。
両国駅周辺にはいろいろと歴史スポットがあり、それらがさほど広くない範囲にありますので、散策初心者にもお勧めです。このブログを読んで歩いてみたくなったという人は、このあたりから始めてみてもいいかもしれません。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
