白井亨(しらいとおる)

~富山県高岡市 加賀だけじゃない百万石編~

2024.04.26

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

加賀百万石の城下町として名高いのが石川県金沢市ですね。2015年の北陸新幹線開通以降、観光客数は大きく増加し、インバウンドにも人気の都市になっています。2024年3月には北陸新幹線が福井県の敦賀駅まで延伸され、さらに観光客の増加が期待されていました。そんな時期に起こったのが能登半島地震でした。大きな被害が出た石川県ですが、観光に大きな影響が出ないかどうか心配ですね。金沢市自体は目立った被害はないようですが、被害の大きかった能登半島の一日も早い復興を願いたいものです。

さて、その金沢の町には「百万石」の文字が其処彼処に見られ、代表的な市内の観光地となっている兼六園や金沢城を通り道の名も「百万石通り」と名付けられています。金沢のゆるキャラにさえ「ひゃくまんさん」という名がついています。

そもそもこの百万石とは、米の収穫量を表しています。1石の米は1人が1年間に食べる米の量ということですので、百万石あれば百万人の人口が養えるということですね。もちろん、そんな単純にはいかないのですが、多くの米がとれたのだということは間違いなさそうです。
ちなみに、1石の10分の1が1斗、1斗の10分の1が1升、1升の10分の1が1合で、この「合」という単位は、今でもご飯を炊くときに使っていますよね。こんなことからも、米が日本人の生活に大きく関わっていたことが伺えます。

金沢駅から東京行きの北陸新幹線に乗ると、まもなくトンネルが断続的に続く区間になります。そしてそれらのトンネルを抜けたところはもう富山県なんですね。米が多く獲れるところのはずなのに、意外に平地が少ないのかなぁ…と思ったのは、同じように米どころを走る上越新幹線のことを思い浮かべたからです。新潟駅から東京行きの上越新幹線に乗ると、2つ先の長岡駅まで両側の景色はほとんど田んぼですし、トンネルもありません。これはもしかして「?」かもしれないと思い、いつものように地図で確かめてみることにしました。

上の地図の黄色の点線は、石川県と富山県の県境を示しています。石川県は、かつて北の能登国と南の加賀国に分かれていましたので、加賀国は石川県のおおよそ南半分と考えてください。
多くの収穫を上げるには広い田んぼが必要です。そして、広い田んぼをつくるには広い平地が必要です。ところが、石川県には南西部の海岸沿いに細長い平地はあるものの、全体的には山がちな地形に見えます。

上の地図は、石川県南西部の平地を拡大したものですが、その北部と南部には水辺が多く、真ん中あたりには扇状地が見られます。稲作に適した土地は、思った以上に少なそうですね。
また、北部の能登半島は、2011年には日本で初めて世界農業遺産に認定された千枚田とよばれる棚田で知られています。棚田は、環境保全や観光資源として貴重なものではありますが、収穫量としては多くは望めません。加賀国も能登国も、百万石に達するほどの米がとれたとは思えないのです。

一方、隣の富山県は、富山市を中心とする広い平野があることがわかります。2022年の両県の米の収穫量を調べてみたところ、石川県が12万3000トンなのに対し、富山県はその約1.6倍の19万7千トンとなっています。
実は、加賀百万石には、越中国と呼ばれていた現在の富山県のほとんどが含まれていました。現在の米の収穫量を見ても、おそらく加賀国+能登国の収穫量よりも越中国の収穫量のほうが多かったはずです。つまり、「加賀百万石の少なくとも半分以上は、実は越中国の米だった」ということなのです。そうすると、加賀百万石というフレーズを金沢だけで使っているのは、富山県民のみなさまからすると「納得できない」ということにならないのでしょうかね。

さて、加賀百万石の大名である前田氏の祖は、信長や秀吉と同じ時代に生きた前田利家なのですが、前田家が百万石なったのは利家の子である前田利長のときです。その利長の菩提寺になっている寺院が、富山県高岡市にある瑞龍寺です。利長は、家督を子の利常にゆずった後、高岡に城を築いて隠居生活をしていました。

上の写真は、国宝に指定されている山門ですが、とても立派な構えをしていますよね。この山門の姿からも、加賀百万石の威光が伝わってくるようです。このような立派な寺院をこの地に建てたことからも、前田家が越中国を重要視していたことが伺えますね。

山門を入って見えてくるのが、上の写真の仏殿です。広々とした緑の芝がとても印象的ですね。このように緑が鮮やかな寺院というのは珍しいのではないでしょうかね。この日は曇っていたため、その美しさがもうひとつ伝わらないのが残念です。

仏堂のさらに奥にあるのが法堂で、建物の中央には前田利長の位牌が置かれています。この配置に、私は不思議な感じを覚えたのです。山門、仏堂、法堂までが一直線で配置されるのは、禅宗寺院にはよくある形式ですが、なぜその最も奥に利長の位牌があるのか??
寺院というのは仏様を祀るところですよね。そうすると、お寺に参拝に来る人は仏さまを拝みに来るわけです。寺院のメインアイテムといってもいい仏像の奥に、しかも真後ろに位牌があるということは、瑞龍寺に来る参拝者は仏さまを拝むつもりで利長にも挨拶をしているということにならないでしょうか。
江戸幕府の祖である徳川家康は、東照大権現という神として日光東照宮に祀られています。加賀百万石の祖である利長公にもそのような権威を持たせたいと、前田家の人々は考えたのではないでしょうか。でも、徳川家の手前、さすがに神として祀るのは憚られるので、このような形をとったのではないかと思うのです。

実は、利長の位牌の置かれているところの柱は、何かに似ているような形をしています。おそらく意図的につくられたであろうこの形を見ると、利長を神格化したかったという意図が伝わってくるように思えるのですが、ここにはあえて載せないでおきます。高岡を訪ねた際には、ぜひ瑞龍寺まで足を運んでいただき、その目で確かめてみてください。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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