白井亨(しらいとおる)

~千葉県船橋市・東金市 徳川家康と御成街道編~

2023.06.08

みなさんこんにちは。

リンスタ社会科担当の白井です。

江戸時代、江戸の町人が楽しみにしていた娯楽の1つに「成田詣り」がありました。
現在でも多くの参拝客が訪れる成田山新勝寺ですが、江戸から片道1泊2日で行かれたこともあり、元禄時代(1688~1704年)ごろから盛んになっていったそうです。江戸を出発して、途中の船橋宿で1泊。翌日に成田について参詣するという行程が一般的だったようで、その際に使われたのが成田街道、現在の国道296号線です。この道は、かつては佐倉街道とよばれており、江戸と城下町だった佐倉を結ぶための道でした。その後、成田詣りがさかんになったことで成田街道と名が変わったようです。
多くの人が行きかう重要な道だったはずの成田街道ですが、地図を見ると「?」なところがあるんです。では、いつもの地理院地図を見てみましょう。

赤く示された道が成田街道ですが、地図の真ん中あたりの交差点で、まるで脇道のように左に折れているのがわかります。どちらかというと、そのまままっすぐに伸びている黄色の道のほうがメインストリートみたいですよね。交差点には下の写真のような古い石碑も残っていて、確かに左方向が成田街道ということも確認できました。そうすると、このまっすぐな道が気になりますね。

この道は東金御成街道といって、船橋市と九十九里浜に近い東金市を結ぶ道だったそうです。「東金市ってどこ?」という人は、下の地図で確認してください。千葉県の形を模したゆるキャラ、チーバくんの首の後ろあたりというとわかりやすいですかね。

地図を見ても「ここに何があるの?」という人も多いですよね。
実は、この東金は、徳川家康が九十九里方面で鷹狩をするための拠点だったところなのです。
鷹狩というのは、飼いならした鷹を山野に放っておこなう狩猟のことで、家康はこれをとても好んだそうです。家康といえば、自身の健康にとても気を配っていたことで知られています。鷹狩は家康にとって娯楽であると同時に、健康を維持するためのスポーツでもあったようです。
江戸にいる家康が鷹狩の場である東金に速やかに移動するために、当時佐倉藩主だった土井利勝に命じて、わずか数か月で整備されたのがこの東金御成街道なのです。東金には、家康が滞在するための東金御殿という施設がつくられました。現在は、千葉県立東金高校の敷地となっていて建物などは残っていませんが、目の前にある八鶴湖は、御殿からの眺望のためにつくられた人造湖だそうです。

先ほどの交差点の「?」はもうわかりましたよね。
庶民や大名が使う成田街道が左に折れ、将軍である家康が使う東金御成街道がまっすぐ進んでいるのは至極当然のことなのです。

東金御殿のあった東金市は、現在ではとても静かな町ですが、歩いてみたところわずかに家康の痕跡を感じさせるものが見つかりました。
その1つが、八鶴湖から北西方向に進んだところにある山王坂です。この坂は、東金御成街道の末端部分だそうで、今でも当時の姿が偲ばれるような切通しとなっています。この坂の途中で見つけたのが権現滝という小さな滝です。家康は、死後に「東照大権現」という神となって祀られていますよね。また、東金駅北方にある浅間神社では、三猿の刻まれた庚申塔を見つけました。三猿といえば、家康が祀られている日光東照宮のものが有名ですよね。
単なる偶然なのかもしれませんが、せっかく見つけたものですからどちらも家康由来のものとしておきましょう(笑)

ところで、東金御成街道の起点となったのは船橋ですが、ここにも家康由来の場所があるんです。
船橋には、東金に向かう家康が休息するための施設として船橋御殿が建てられました。その跡地にあるのが下の写真の「船橋東照宮」です。ちゃんと徳川家の家紋である「三つ葉葵」も掲げられていますよね。

JR船橋駅から徒歩5分程度のところにあるのですが、駅前通りから路地を入り、さらにもう1本路地を入ったところにあるので、かなりわかりにくいかもしれません。しかも、とっても小さな祠なので、日光東照宮の立派な社殿を思い浮かべた人は、唖然とするかもしないですね。ちなみにこちら、「日本一小さい東照宮」だそうです。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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