東京都国分寺市・府中市
~1300年の記憶をたどる 後編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
真姿の池で涼をとった後、「お鷹の道」と書かれた石畳の細い道があったのでそちらに進んでいくことにします。江戸時代、このあたりの村々が尾張徳川家の「鷹場」に指定されていたことが、その名前の由来なのだそうです。鷹狩で汗をかいた侍たちも、この澄んだ湧水で喉を潤したのでしょう。
お鷹の道を進んでいくと、右手に武蔵国分寺の境内にたどり着きますが、私の目的地はあくまでも「跡」のほうなので、本堂に向かって少しだけご挨拶をして左に折れていきます。

そのまま進んでいくと、目の前に周囲よりも少しだけ高くなった広々とした場所が現れます。これが「武蔵国分寺跡」です。以前のブログでも、上総国分寺や下総国分寺を紹介しています。その際に、国分寺を建立する場所として3つの地理的条件があるということを書いています。だいぶ前のブログなので再度確認しておきましょう。
① 国華として仰ぎ見るのによい地形
② 水害の憂いなく長久安穏の場
③ 南面の土地
さて、この武蔵国分寺はどうでしょうか?
まず①の「国華として仰ぎ見るのによい地形」ですが、上の地図を見ると南側が少し低い土地になっていることがわかります。地図ではわかりませんが、その南には多摩川の流れもあります。南側の低地から見上げると、背後には国分寺崖線の緑が壁のように広がり、その手前には立派な伽藍の数々が建ち並んでいるわけです。人々が国の威光を仰ぎ見るのに、これ以上ないロケーションでしょう。
次に②の「水害の憂いなく長久安穏の場」ですが、氾濫の心配がある多摩川からは離れた一段高い土地ですので、水害の心配はありません。また、先ほど見た真姿の池のような湧水がすぐ近くにあるため、水不足に悩まされることもないですね。まさに末永く寺を維持できる絶好の土地です。
③の「南面の土地」というのも問題ないですね。日の光に照らされた色鮮やかな建物が、きらきらと輝くように見えたことでしょう。
全体的な位置を確認したら、いよいよ国分寺跡に入っていきます。
右側にはさらに一段高くなった四角いスペースがあります。近づいてみると案内板があり、そこには「講堂跡」の文字が・・・。
「あっ、やってしまった💦」
講堂というのは寺院のいちばん奥のほうにあるものです。つまり私は、武蔵国分寺の裏手から入ってしまったということなのです。国が威信をかけて建てた壮大な寺院に裏口から入るなんて失礼極まりないので、170mほど進んだところにある「南門跡」まで移動します。もちろんまっすぐに歩いたのでは参道を逆行するだけなので、少しだけ東に迂回してみます。我ながら面倒くさいこだわりだなぁとも思いますが、歴史を体感するにはこうした「順路」が案外大事だったりするのですよ。
南門に向かう途中で不思議なことに気がつきました。
国分寺のシンボルとも言えるのが七重塔です。もちろんこの武蔵国分寺にも巨大な七重塔が建てられていたのですが、地図を見ると塔の跡がなぜか2つあるのです。そんな巨大な建造物が2つもあったのかとちょっと驚きましたが、もちろんそんなことはありません。説明を読んでみたところ、創建された時の七重塔が落雷で焼失してしまったため、後に別の場所に再建されたのだそうです。置かれていた礎石はかなりの大きさでしたので、きっと天にも届きそうな高い塔が建っていたのでしょうね。

南門まで戻ったことで、裏から入ってしまったことはチャラにしましょう(笑)
南門跡に立って北の方向を見ます。おそらくここにも立派な門が建っていたことでしょう。
門の中に一歩足を踏み入れます。正面には中門が見え、右手遠くに目をやると壮大な七重の塔が聳え立っています。
先へと進んで中門を通り抜けると、そこは周囲から区切られた清静な空間です。中門の左右からは立派な回廊が左右に伸び、金堂やその奥にある建物までをぐるりと取り囲んでいます。
そして正面には、金堂の大きな建物がどっしりと立ちはだかります。
説明板には「桁行7間×梁行4間」と書いてあります。この「間」というのは長さの単位ではなく「柱と柱の間の数」のことなのですが、武蔵国分寺の金堂は1間あたりの長さがなんと5メートル近くもありました。現代の単位に直せば幅約37m×奥行約18mといったところでしょうか。この立派な建物には、ご本尊様となる仏像もおさめられていたはずです。
さらにその金堂のすぐ後ろ、回廊に守られた一番奥に構えているのが講堂です。ここは僧侶たちが集まり、お経を学んだり説法を聞いたりした、いわば古代の教室・学問の場ですね。金堂に負けず劣らずの堂々とした建物がそこに佇み、厳かな雰囲気を漂わせていたことでしょう。
門をくぐるたびに新しい建物が現れ、回廊に囲まれた空間に広がる壮大な伽藍の配置・・・。当時の姿を想像しながら歩いていると、まるで1300年前の時代にタイムスリップしたかのような感覚になりますね。
1つ残念だったのは金堂の礎石の間に、レンガのような色のタイルが敷かれていたこと。土の地面のままにしておいてくれたほうが雰囲気が出ると思うのですが、保存の関係でしかたないんでしょうかね。
国分寺跡から少し離れた場所には「武蔵国分尼寺跡」もあります。礎石の様子からすると、こちらも立派な規模を誇っていたことが想像できます。今は府中街道と武蔵野線が両寺院を遮っていますが、1300年前にはどちらからも見えたのでないでしょうか。武蔵野の台地に、瓦屋根の巨大な寺院がそびえ立ち、僧や尼僧たちがお経を読む声が響き渡っていた・・・。目を閉じると、寺院の姿だけでなく、当時の音までもが聞こえてくるような気がしました。

しばらく歩いていると、交差点の向こうに延々と続くコンクリートの高い壁が現れました。そして、その交差点の信号には「刑務所角」の文字が・・・。これは府中刑務所の壁だったんですね。府中刑務所といえば、東京ドーム約5.6個分の敷地面積を持つ日本最大の刑務所です。

そういえば、奈良の刑務所跡を利用したホテルができたというニュースを見たことを思い出しました。もちろんリニューアルされているのでしょうけど、私はあまり泊まってみたいとは思わないですね。
そして、府中刑務所と聞いてもう1つ思い出したことがありました。それは、昭和の犯罪史に残る最大のミステリーとも言われる三億円事件です。
1968年12月10日の朝、府中刑務所北側の路上で、工場の従業員たちの大切なボーナスとなる三億円を運んでいた車が、白バイに乗った警察官に扮した犯人に呼び止められました。犯人は「車に爆弾が仕掛けられている」と嘘をついて偽の煙を出し、みんなが驚いて避難した隙に、なんと車ごと大金を奪って逃げ去ってしまったのです。
誰ひとりケガをさせず、わずか数分で鮮やかに大金を奪ったこと、そして警察の大捜査にもかかわらず犯人が捕まらないまま時効を迎えてしまったことから、「昭和最大の未解決事件」として今も語り継がれています。
刑務所北側の路上ということは、まさに今見ている道の先でこの事件が起こったんですよね。さっきまで古代のロマンに浸っていたはずなのですが、突如として頭の中が昭和になってしまいました。それにしても府中刑務所と聞くだけで即座に三億円事件を思い浮かべるなんて・・・。すっかり昭和の人間であることがおかしいやら切ないやら・・・。
気を取り直してさらに歩き続けると北府中駅が見えてきました。ここから次の目的地がある府中本町駅まではあと一駅。歩いていくか、それとも電車に乗るか・・・。少し迷ったふりをしましたが、暑さにすっかり体力を奪われていた私は、あっさりと電車に乗り込んでいました(笑)
たったひと駅では涼しさを楽しむ余裕もなく、あっという間に府中本町駅に到着。改札を出て右に向かうと、正面に武蔵国府跡のある大國魂神社の鳥居が見えます。しばらく進むと右側に広いスペースがあり、そこには何やら柱のようなものが何本も建っているようです。交差点のところにその入り口があり、そこには「武蔵国府跡」の碑が…。「あれ? 地図で見たときは神社の先にあったはずなんだけど…」と思って確認してみると、この場所からは都から武蔵国へ赴任してきた国司の館の跡が発掘されたのだそうです。先ほど見えた柱は、当時の建物の区画と柱が再現されているものでした。
また、この場所からは徳川家康が鷹狩の際に使った御殿の跡も見つかっています。古代から近世まで、この地は重要な地であり続けたということなのかもしれませんね。
信号を渡って鳥居の奥に進んでいきます。
「あっ、またやってしまった💦」
府中本町駅からのルートだと、またしても神社の西側、つまり本殿の真横あたりから境内に入ることになってしまったのです。2度も続けて正面でないところからこっそり入るなんて、どこからか「曲者だぁ~」の声が聞こえてくるようですよね(笑)
気を取り直して本殿に参拝し、神社の東側にある「武蔵国府跡」へと向かいます。そこには国府の建物の真っ赤な柱が復元されて建っていたのですが、先ほどの武蔵国分寺跡の広々とした姿を見た後だったせいもあり、下の写真のような小さなスペースでは想像力も広がりません。

そこで横にあった資料室のようなところに入ってみることにしたのですが、なんとこの建物、エアコンがないのです。私の学習意欲はあっさりと暑さに敗北してしまいました。
神社の参道に戻ると、そこにも武蔵国府跡の碑が建っていました。古代の国府は、大國魂神社を取り囲むように様々な施設を擁していたのでしょうね。国の政治の中心ですから、様々な機関があったでしょうし、そこで働く多くの役人もいたのでしょう。
府中本町駅に戻ろうかと思ったのですが、ちょっと気になったのが神社の横から入ってしまったこと。せめて正面から挨拶だけでもしておくかと、本殿を背に参道を北に向かいます。
「ん? 北に向かう?」
神社というのは、普通は南を向いて建てられているはずです。本殿を背にして北に向かっているわけですから、大國魂神社は北向きにつくられているということです。調べてみたところ、大國魂神社を北向きにしたのは、平安時代の武将源頼義だそうです。源頼義といえば、子の義家とともに前九年の役で東北地方の安倍氏を倒した人物です。神社の向きが変えられた1051年といえば前九年の役が始まった年です。頼義は大國魂神社の神の力を背後に備え、安倍氏との戦いに挑もうとしたのでしょう。
大鳥居をくぐって神社の境内を出たのですが、先にはちょっと雰囲気のいい並木道が続いていたので、もう少し先へ進んでみることにしました。そして、5分も歩かないうちに京王線の府中駅に着いてしまったのでした。大國魂神社に正面から参拝するときには府中駅を利用する方がよさそうですね。
「あれ? でも府中というのは国府を表すわけで、それだと府中本町駅のほうが近いな・・・」
なんだかよくわからなくなってきました。
そもそも、国分寺や府中は全国に置かれていたはずなのに、なぜこの東京の場所にだけ、〝国分寺市〟〝府中市〟という名前がそのまま自治体の名として残っているんでしょうね?

まずは〝府中〟です。
国府が置かれていたことを表す地名は他にもありますが、例えば、甲斐国の府中は「甲府」、周防国の府中は「防府」のように、「国名の頭文字+府」という名前に変化していきました。本来ならば武蔵国の府中ですから「武府」となるはずです。
それは、街の発展の歴史の違いではないでしょうか。例えば、甲府は戦国時代に武田氏の城下町として発展しました。甲斐国を治める武田氏の本拠地であることを表すには、ただの府中よりも甲府のほうがふさわしいでしょう。一方、府中市のある武蔵国の中心地は、徳川家康が城を築いた江戸でしょう。であれば、わざわざ「武蔵国の」という意味をつけなくてもよかったはずです。そのため、府中という地名がそのまま使われ続け、今に至ったのだと思います。
ちなみに、府中市というのは広島県にも存在します。原則として「すでに同じ名前の市がある場合、その名前は使えない」ことになっているのですが、両市が誕生したのはたった1日違いだったのです。同時期に申請されたものだったので、どちらを優先するわけにもいかなかったのでしょうね。
一方の〝国分寺〟はどうでしょうか。
かつては香川県や栃木県にも国分寺町という自治体がありましたが、平成の大合併などで消滅し、現在、日本全国で国分寺を名乗る自治体はここだけになってしまいました。
そもそも国府=府中というのは政治の中心ですから、時代が変わっても宿場町や商業の中心として発展しやすく、人が集まる土壌がありました。しかし、国分寺はあくまで宗教施設です。平安時代以降に国からの手厚い保護がなくなると、全国の国分寺の多くは衰退し、その周辺が大きな町へと発展していくことは少なかったのだと思います。つまり、全国各地の国分寺周辺は、単独で「市」を名乗れるほどの人口や規模を持つ自治体には成長しにくかったわけです。
では、なぜ武蔵国分寺だけが国分寺になれたのか。それはひとえに「そこが東京だったから」に他なりません。都心へとまっすぐ繋がる中央線が通り、戦後の高度経済成長期に東京のベッドタウンとして人口が爆発的に急増したため、単独で「市」に昇格することができました。一方で、他県にあった「国分寺町」などの小さな自治体は、周辺の大きな市町村との合併の波に飲み込まれて消滅してしまった・・・というわけです。
国分寺も府中も特別扱いされて名前が残っていたというよりは、近代の市町村合併のタイミングや特例、そして時代の波を乗り越えた結果として、偶然に「1300年前の古代地名セット」が残った、というのが真相のようです。
千葉県民の私が抱いた「国分寺と府中って近いんだな」という素朴な疑問から始まった今回の散策。実際に歩いてみると、多摩川が作った「地形(=地理)」、古代国家が描いた「歴史」、そして現代に地名を残した「行政(=公民)」という、そこには社会科の面白さがすべて詰まっていたのでした。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
