東京都国分寺市・府中市
~1300年の記憶をたどる 前編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
諸々のことを考えるとあたりまえのことなんですけど、ある時ふと「ああそうだったのか!」と気づくことがあります。先日も何気なく地図を見ているときにそんなことがありました。
長いこと千葉県に住んでいる私は、東京都西部の地理には疎いところがあります。そんな私が「意外に」思ってしまったのが、国分寺と府中って近いんだなということでした。
考えてみれば、JR武蔵野線に乗ると西国分寺駅の隣は北府中駅なわけだし、歴史の面で考えても、古代の地方政治の中心である府中と、国ごとに建立された国分寺が近くにあるのはあたりまえなんですよね。なんで今さらこんなことを・・・と思った私は、戒めの意味も込めてこの地を訪ねてみることにしたのです。
高架線上を快調に走っていた中央線の快速電車は、間もなく国分寺駅に到着します。ところが、1つ手前の武蔵小金井駅を出ると、その車窓は奇妙な変化をしていきます。電車が坂を下っている感覚があまりないにも関わらず、先ほどまで下に見えていたはずの道路や住宅の屋根が、じわじわとこちらに向かって近づいてきます。下ってないのに徐々に地面が迫ってくるような不思議な違和感を抱えたまま、電車は国分寺駅へと滑り込みました。
ドアが開いてホームに降り立った私は「ん? なんか薄暗いな…」という感覚を持ちました。改札を抜け駅の外に出てみたところで、その答えの1つがわかりました。ホームからはエスカレーターで上がってきたのに、駅出口と駅前のロータリーには高低差がないのです。つまり、国分寺駅は「切通し」になっているんですね。でも、なぜたった1駅で高架橋上の線路が切通しを通るようになるんですかね?
こういうときは地図を確認するしかないですね。

上の地図を見てください。
まずわかるのは、国分寺駅は両側を谷に挟まれた台地上にあるということです。東京都西部ですから、おそらく武蔵野台地の一部でしょうね。でも、これだけでは「切通し」の謎は解けません。そこでもう少しだけ地図の範囲を広げてみると、その「?」の答えがわかりました。
武蔵野台地は西へ向かうほど標高が高くなっていきます。このことは以前のブログ(東京都青梅市 扇の要はネコの街編)にも書きました。つまり、西に向かっている中央線は、武蔵野台地を少しずつ上っているということになるんです。地図でも、武蔵小金井駅の周辺と、国分寺駅や西国分寺駅の周辺では色が違っていますよね。ただ、坂に弱い鉄道は標高を一気に上げることは困難です。そこで、国分寺駅のあるところを切通しにすることで、勾配がきつくなりすぎるのを抑えたのだと思います。
台地と谷の境目にある国分寺駅周辺には、湧水ポイントが数多く点在しています。駅の南口を出てすぐのところには、静かな庭園と澄んだ湧水を楽しめる「殿ヶ谷戸庭園」があります。しかし、地図を眺めていた私にはもっと気になるものがあったのです。それは駅の北に見つけた「恋ヶ窪」という、なんともロマンチックな地名です。
この地名についてよく知られているのは、鎌倉時代の武士・畠山重忠にまつわる悲しい恋の伝説です。清廉潔白な人柄、優れた武勇などから、「武士の鑑」と称えられた畠山重忠は、源頼朝の有力御家人として数々の戦功を立てました。頼朝からの信頼に応えて忠義を尽くした重忠でしたが、最後は権力闘争に巻き込まれて非業の死を遂げます。
そんな重忠とこの地で出会い、深く愛し合ったのが「あやめ」という女性でした。平家打倒の戦いのために西国へ旅立った重忠と再会できる日を、あやめは心待ちにしていました。ところが、あやめのことを好きになった別の男から「重忠が戦死した」という嘘を告げられ、深い悲しみにくれた彼女は池に身を投げて命を落としてしまったのだそうです。この切ない恋の物語が由来となって付いたのが「恋ヶ窪」という地名だというものです。
たしかに、物語としては魅力的なエピソードですが、なんとなく眉唾という感じがしませんか?
これまでにもいくつかの地名の由来について調べてきた私は、もう1つの説の方がよりリアルに感じられるのです。それが、谷や山あいを意味する「峡」という字を使った「峡が窪」が由来となったというものです。先ほどの地図でもわかるように、国分寺駅の東西には、台地が削られてできた「峡」や「窪」がありますよね。地形の特徴をそのまま表した「峡が窪」が、いつしか「恋ヶ窪」になっていった…。私はこの説に一票を投じようと思います。いつも言っている通り、あくまでも個人の感想ですけどね(笑)
さて、駅北口を出て散策を始めることにしましょう。
線路沿いに西に向かう狭い商店街の道を進みます。緩やかに上り下りしながら線路沿いに出ると、道はまた下り坂になります。道の右側にはフェンスが続いています。地図を見るとフェンスの向こうには大きな池があるのですが、残念ながらそこには行かれないようですね。
坂を下って西武国分寺線の線路をくぐったところで、ちょっとおもしろいものを見つけました。
目的地までの経路を示す「〇〇まで〇km」という看板を見かけることはよくあるのですが、目的地の距離表示の下に、なにやらもう1つの数値が書かれています。その数値の単位は「kcal」、つまりそこまで歩いた時の消費カロリーが書かれていたのです。目的地までの距離だけでなく、歩くことでどれくらいカロリーを消費できるかまで親切に教えてくれるなんて、国分寺市は市民の健康への配慮もしてくれているんですね! 私も消費カロリーの表示にちょっと背中を押されたような気分になり、足取りも少し軽くなったような気がします(笑)

さらに住宅街を歩いていくと、左のほうに続く歩道が現れます。この先にあったのが「姿見の池」です。そこには、下の写真のような澄んだ水が静かに広がっていました。この日は蒸し暑い日だったこともあり、水辺に立つと少しだけ涼を感じることができたような気がします。

姿見の池を後にして住宅街の細い道を進んでいきます。しばらく進んで車道に出ると、目の前には下の写真のように急な上り坂が! そしてその先には西国分寺駅が見えてきました。もうひと駅分歩いたんですね。

それにしても、このあたりに住んでいる人たちは毎日この坂を上って駅に行くわけですよね。たぶん毎日の消費カロリーは、平地で生活している人たちの何倍にもなるのでしょう。私も消費カロリーを大いに稼いだと思います(笑)
線路を越えるために橋の上から西国分寺駅のホームを覗き込むと、先ほどの国分寺駅と同じように切通しにある駅だということがわかります。この駅は武蔵野線と中央線が立体的に交差していますが、上を通る武蔵野線の線路はこの道路とほぼ同じ高さにあります。台地の高低差をうまく利用して建設されているんですね。
駅の南側に出て、次の目的地は東山道武蔵路跡です。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、都が置かれていた現在の奈良県と全国各地を結ぶために「七道」と呼ばれる道が整備されました。現在で言えば高速道路や新幹線のようなものでしょうかね。そのうち、長野県や群馬県、栃木県などを通る「東山道」から南へ枝分かれし、武蔵国の国府へとまっすぐ向かう道路として作られたのが、この「東山道武蔵路」でした。
発掘調査でわかった道のスケールには驚かされます。なんと道路の幅は約12メートル。おそらく片側2車線の道路と同じくらいの広さでしょう。そんな巨大な道が、定規で引いたようにひたすらまっすぐにつくられていたのです。都から国府へ向かう役人、それとともにもたらされる情報。税として国府に納める物資やはるばる都へと運ばれる物資。国府に勤める兵士や都に向かう兵士・・・ テキストで学ぶ「律令政治」に関わるさまざまなものがこの道を行き交っていたのでしょう。
ここで1つ気づいたことがあります。先ほど、東山道は〝長野県や群馬県、栃木県などを通る〟と書きましたが、現在の東京都や埼玉県である武蔵国を通るのはいささか不合理ではないかということです。長野県から群馬県や栃木県に向かうには東の方向へ、対して埼玉県や東京都に向かうには途中から南の方向に向かうことになります。
一方、都から静岡県や神奈川県を通って行くルートとして「東海道」がありました。現在の東海道新幹線や東名高速道路もそうですが、東京都や埼玉県へはこちらのルートを使ったほうがスムーズに移動できそうです。そこで、奈良時代の終わりごろになると、武蔵国へは東海道を使うようになり、東山道武蔵路は都と地方を結ぶメインルートから外れてしまうのです。
日本の東西を結ぶメインルートが東海道新幹線や北陸新幹線。国分寺の地を南北に貫くのは・・・JR武蔵野線ってことですか? だいぶスケール感が違ってしまいますね。いやいや、武蔵野線も旅客だけでなく貨物の動脈としても重要ですからね。ちょっと比較する例が悪かったかもしれません・・・💦
西国分寺駅から10分ほど歩き「東山道武蔵路跡」と書かれた場所に着いてみてびっくり!そこには1つ石碑が置かれているだけだったのです。説明は詳しく書かれているものの、たった1つの石碑だけとは・・・。私の期待とのギャップは、やっぱり新幹線と武蔵野線ほどの開きがあったのでした(笑)
ここに長居をする必要もないので早々に立ち去ることにして、武蔵国分寺公園に向かいます。国分寺市役所の脇を通って公園の入り口に来てみると、そこには手作り感満載の立て看板が数枚。そこに書かれていたのは「ヘビに注意」の文字。たぶんこの立て看板は最近になって急遽建てられたものなんですよね。・・・ということはヘビが姿を現す可能性はかなり高い?
私が世の中で最も忌み嫌うものがヘビなんですよ。その姿を見ただけで、いや想像しただけで虫唾が走るのです。でも、目的地にはここを進んでいくしかない・・・。足元をチラチラと警戒しながら、やや早足で公園への階段を上っていきます。すると目の前には、下の写真のような芝生の広場が広がっていました。そこには休日を楽しむ家族連れの姿もちらほら。これならばヘビに怯えなくていいだろうとほっと胸をなでおろし、ゆっくりと先へ進んでいったのでした。

芝生の緑は美しいのですが、特に見るべきものはなさそうです。芝生の広場には「武蔵国分寺井戸」というのもありましたが、まったく古代感のないただのポンプのついた井戸です。どうやらここは、武蔵国分寺の遺跡とはあまり関係はないようですね。
広大な芝生広場を抜け、公園の南側の端に来ると、その先にはまた木々の生い茂るところがあります。「どうかヘビに会いませんように・・・!」と心の中で祈りながら、日差し輝く芝生広場と対照的な薄暗い階段を下っていきます。足元に注意しながら急な階段を下りていくと、澄んだ水を湛える池と水路の流れがありました。ここは「真姿の池湧水群」といって環境省の名水百選にも選ばれています。木漏れ日の中で透き通った水が音を立てて流れていく様子は、見ているだけでも癒やされますね。池のほとりには弁財天が祀られた小さな神社があったのでお参りを済ませ、木陰を吹き抜ける風と、ひんやり冷たい水辺の空気を感じながら、しばらく立ち止まって涼をとることにします。

先ほどの姿見の池の先には急な坂がありました。この真姿の池には急な坂を下りてたどり着きました。どちらも崖の地形ですね。そもそも、なぜこの地域には数多くの湧水があるんでしょうね?
そのヒントになるのが、最初に載せた標高のわかる地図です。色の異なるところが地図の東西を結ぶ線のように繋がっているのがわかりますか? つまりこれって崖が続いているということですね。
この崖は「国分寺崖線」といって、はるか昔に多摩川が武蔵野台地を削ってできたものです。台地に染み込んだ雨水が長い年月をかけて地下を通り、この大きな崖のふもとから湧き出しているのです。台地と崖という自然の地形が天然の大きな貯水池の役割を果たし、この豊かな湧水を生み出していたんですね。
この地域の古い言葉では、こうした崖や水が湧き出るふもとのことを「ハケ」と呼んでいます。その由来には諸説あるようですが、私は「崖が湧き水を〝吐き出す〟場所だから」というのを推したいと思います。澄んだ湧水を目の前にしていれば、「大地が水を吐き出している」という表現こそがふさわしいと感じざるを得ませんよね。
この後は武蔵国分寺、さらに武蔵国府に向かうのですが、それはまた次回ということにしましょう。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
