長野県東御市
~語り、歩く、宿場町編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
これまでのブログでは、私がひとりでいろいろなところを訪れて、見聞きしたことや感じたことを気ままに綴ってきました。自分のペースで歩き、思いつくままに行き先を決め、時にはのんびりと、時にはストイックに巡る気まぐれな時間が何よりも楽しいと思っていたのです。しかし今回は、珍しく私ひとりではありません。なんと同行者がいるのですよ! 今回は「そいつ」にも登場してもらい、いつもよりちょっとだけ賑やかな旅をお届けしてみたいと思います。
スタートは、しなの鉄道の大屋駅です。…といってもどこにあるのかわからないですよね。ここは、北陸新幹線の上田駅から軽井沢方面へ2つめのローカルな駅です。
改札を抜けて…といっても人はいない無人駅ですが、今は交通系ICカードの機械が備え付けられていますので、いつものように「ピッ」とタッチして外へ出ます。ふと左側を見ると、何やら碑のようなものがあったのでそちらを確認してみることにしました。まだ新しそうな黒い石碑には「日本初の請願駅記念碑」と書いてありました。早速「そいつ」が質問をします…「請願駅って何ですか?」と。しかし、石碑の横には説明書きがあり、おそらくそれを読めばわかるだろうと思った私は、それを指さして「読め」という合図を出します。すべてのことに答えを出すのではなく、時には自分で解決できるように仕向けるというのも、生徒を伸ばすには大事なことですからね。もちろん「そいつ」は生徒ではないですけど(笑)
ちなみに請願駅とは、地方自治体や地元住民・駅の周辺にある企業などの要望により開設された駅のことです。
駅前を後にして歩き始めます。目指すところは、旧北国街道の宿場町、海野宿です。ここは昔のままの建物が保存されていて、かつての宿場町の雰囲気を味わうことができるとのことで、以前から一度訪ねてみたいと思っていました。

同行者の歩くペースを考え、いつもより少しスローペースで歩を進めます。歩き始めてしばらくは車も行きかう狭い道で、あまり歩きやすいとは言えない道です。しかし、そんな道でも、ちょっと視線を上にあげてみると、古い時代を感じさせるものがあるのです。
「あの古い家の屋根のてっぺん、小さな屋根のようなものが乗っかっているのがわかるでしょ? あれはなんだかわかりますか?」
「う~ん… 昔の換気口かなんかですかね??」
「おっ、なかなか鋭い! あれは〝気抜き〟といいます。明治時代の〝蚕室づくり〟の象徴ですね。養蚕では、室内の温度や湿度の管理、あるいは蚕の呼吸のための空気の入れ替えが大切なんです。そのための工夫があの気抜きなんですよ。」
そんな解説をしながら歩いていると、左に分かれていく道が見えてきます。これが旧北国街道で、こちらは車の通りもあまりなく、歩きやすそうな道です。
右側には川が流れていますが、これは一連の長野県のブログで何度も登場している千曲川です。県境を超えて信濃川と名を変え、河口の新潟市で見た川はとても大きな川でしたが、この辺りではまだ川幅もそれほど広くなく、どこか穏やかで優しい表情をしていました。
旧北国街道に入ってしばらくは、現代の民家の中にポツポツと古い建物が混ざっているという感じで、まだ宿場町の雰囲気は感じられません。
しかし私はもう気づいています。すでに宿場町を感じさせるものが見えているのを。ただ、これを「そいつ」に言ったところでわからないだろうと思いますので、もうしばらくは何も言わないでおくことにします。
しばらく進んでいくと、右手に一軒のお店がありました。暖簾に書かれている文字を見ると、どうやら酒屋さんのようです。信州には数々の銘酒がありますので、購入したいのは山々ですが、この後もだいぶ歩く予定があり、重い瓶を持っての歩きを考えると躊躇してしまいます。いい雰囲気のお店なので、ちょっと寄ってみたいと思ったのですが、中に入って何も買わずに出るのはどうかと思い、泣く泣く断念しました。後で「1本くらい買ってもよかったかな…」と後悔したのはここだけの話にしておきましょう(笑)
酒屋さんのあたりから道が少し狭くなり、先ほどの〝宿場町を感じさせるもの〟はしばらく姿を消します。そして、それが再び姿を現すと「海野宿」と書かれた灯篭が見えてきました。ここが海野宿の西の入り口です。地図を確認すると〝西の枡形跡〟と書いてあります。枡形については上田城のブログで説明しましたよね。おそらくかつてのここも、道が直角に曲がっていたのでしょうね。残念ながら、今はその痕跡を確認することはできませんが、上を見るとこれまで見えていた電線がなくなっています。昔の街並みを保存しているところでは、景観を守るために電線を地中に埋めていますが、いよいよここから海野宿が始まったということでしょう。灯篭の隣には説明版があって、海野宿の紹介が書かれていたのですが、なぜか「そいつ」がその前で固まっています。
「あれ? これって何て読むんですか? とうご? とうぎょ? ひがし…?」
指さされたところを見てみると、そこには「東御市海野宿」と書かれていました。
「……へ? ああ、これは〝とうみし〟って読むんですよ。」
〝東御市海野宿〟…言われてみれば、これはなかなかの難読地名ですよね。「とうごしうみのじゅく」と読んでしまってもおかしくありません。私にとってはあたりまえの地名でしたが、「そいつ」の意外なひとことのおかげで、ハッと気づかされたことがあったのです。これは、自分ひとりで歩いていただけでは決して気づくことはなかったでしょう。あたりまえのことをあたりまえと思わずに視野を広く持たねばならないな …ちょっとだけ反省させられた瞬間でした。

さて、ここらで先ほどから見えていた〝宿場町を感じさせるもの〟の種明かしをすることにしましょう。
上の写真を見てください。街道の両側に古い建物が並び、道の真ん中にある小さな水路があります。まさに、昔の宿場町といった風景ですよね。実はこの水路、旧北国街道に入ったあたりから見えていたのですよ。蓋がされているところもあったので気づきにくいとは思いますけどね。「そいつ」に確認してみたところ、やはり気づいていませんでした。
海野宿の水路は、江戸時代と変わらない位置で残されているそうです。手前に石段が見えると思いますが、これはそれぞれの家のための洗い場だったそうです。宿場町ですから、ここで馬に水を飲ませたり、旅人が足を洗ったりしていたのでしょうね。江戸時代さながらの風景に、同行者も「うわぁ、これは見事ですね!」と感動を隠せない様子です。
さて、ここからは生きた歴史の宝庫ですから、たくさんの「?」があります。私は早速同行者に問題を1つ出してみます。
「建物の2階を見てみてください。隣の家との境に、三角形に突き出た部分があるのがわかりますか? さてあれは何でしょう?」
「う~ん… 何かのデザイン的なものですか? ちょっとカッコいいですよね。」
〝カッコいい〟…という意外な反応に、ビシッと突っ込みたくなるのを抑え、優しく説明をしてあげました。

「あれは卯建といいます。たしかにカッコいいかもしれないけど、そのためにあのような形になっているわけではありません。昔の建物は木でできていますから、火には細心の注意を払っていました。万が一、隣の家で火事が起こったときに火が燃え移るのを防ぐための、いわば防火壁なんです。ただし、あれをつくるのには多額の費用がかかるため、立派な卯建があるのは富の象徴だったんですよ。出世できないとか、お金がたまらないという意味のことわざ「卯建が上がらない」というのは、これが語源になっているんです。」
「へぇ~! だからあんなに出っ張ってるんだ!」と納得した「そいつ」に、続けざまにもう1つ質問をぶつけます。

「さあ、今度はあの家を見てください。さっきとはまた違う出っ張りが2階にあることがわかりますよね。あれも卯建なんですが、先ほどのと何が違うでしょうか?」
「なんだろう? 今度こそデザイン? こっちのほうがカッコいいかも…」
また〝カッコいい〟かいっ!…と突っ込みたいところですが、ここも冷静に説明をします。
「先ほどの三角のは〝本卯建〟と言って、江戸時代につくられたものなんです。一方こちらは〝袖卯建〟といって、明治時代の裕福な家につくられたものです。実は、海野宿は、江戸時代と明治時代では異なる顔を持っているんです。」
江戸時代の海野宿は、その名の通り北国街道の宿場町として栄えました。北陸地方の諸大名の参勤交代や善光寺への参拝客が行きかうだけでなく、佐渡島で産出された金の輸送ルートとしても重要でした。そこにある〝馬の塩舐め石〟などは、宿場町だった海野宿のものですよね。石の上に塩が置かれていてそれを馬に舐めさせたわけです。先ほどの水路で水分補給、ここで塩分補給をさせることで、相棒である馬を労わったのでしょう。

今度は、下の写真の古い建物のところで質問します。
「あの家の2階の格子戸をよく見てください。ちょっと変わってると思いませんか?」
「あっ! 長い木と短い木が交互になっている!」
「そうですね。これは〝海野格子〟といって、長短2本ずつの木を交互に組み合わせた、この地域特有のデザインなんです。外からは中の様子が見えにくく、中からは外の風景がよく見えるのだそうです。旅人のプライバシーを守ったということなのかもしれませんね。」

「じゃあ、明治時代はどのような場所だったんですか?」
「それはすでにヒントが出ていますよ。考えてみてください。」
これを読んでいるみなさんはもう気づいていますよね。
明治時代になると鉄道が開通し、宿場町としての海野宿は寂れていきます。そこで目を付けたのが、当時の重要な輸出品だった生糸の原料となる繭の生産です。もともとこの地域では、江戸時代から農家の副業として養蚕がおこなわれてきました。養蚕業は、海野宿を支える産業として発展していき、先ほどの袖卯建を構える裕福な人々もいたというわけですね。
昭和時代になって養蚕業が衰え、いくつかの建物は壊されたそうですが、昔ながらの街並みは残りました。やがて、この貴重な風景を残そうとする動きが高まり、1987年に国から「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受け、今に至るのです。
さて、海野宿を楽しみながら東の端までたどり着きました。ここには白鳥神社があり、江戸時代には桝形が置かれていたところでもあります。海野宿を西の端から東の端まで歩いていたということですね。

「この神社は古そうですね。」と同行者。
「なんでそれがわかりますか?」
「えっ、だって神社の建物が古そうじゃないですか。」
「もちろんそれもそうですよね。でも、境内にある木の大きさを見てください。かなり立派なものばかりですよね。これだけの大きさの木があるということは、この場所が長い間壊されることなく守られてきたという証でもあるんです。木の大きさと神社の歴史が必ずしも一致するわけではありませんが、建物以外にも目を向けてみるといいですよ。」
…とそんなことを言ったら、周囲を見回した同行者が何かを発見したようです。そこには「木曽義仲挙兵の地」と書かれていました。
白鳥神社は、日本武尊に由来します。日本武尊は東征の際にこの地に立ち寄ったとされ、伊勢で亡くなり白い鳥となった姿でも、ここに舞い降りたという伝説があるそうです。
日本武尊とともにここに祀られているのは、この地方の豪族だった海野氏です。そして、その海野氏の子孫とされているのが、信州の旅で何度となく登場した真田氏です。このように、古い歴史がある白鳥神社なのですが、木曽義仲のことは知りませんでした。それを見つけた「そいつ」には、とりあえず💮を上げることにしましょう(笑)
木曽義仲といえば〝源平の戦い〟ですよね。義仲と頼朝のことや義経のこと、さらに義仲の息子義高と頼朝の娘大姫との悲恋の物語のことなどを語ってあげたのですが、「そいつ」が興味を持ったのはなんと後白河法皇…。たしかにこの時代の歴史の中で暗躍し、ある意味時代を動かしていいたともいえる人物ですよね。どうやら、後白河法皇の〝老獪さ〟や〝闇〟のような部分に興味を持ったようです。後日聞いたところによると、帰宅後早速インターネットで後白河法皇に関する書籍を見つけて購入したとのことでした。どんなところに興味を持つかは人によって異なるのだということも、今回得た学びのひとつなのかもしれません。
海野宿を離れて、今度は田中駅に向かって歩き始めます。こちらのルートは、しなの鉄道の線路沿いに下の写真のような遊歩道が整備されていました。

ただし、その遊歩道は途中で途切れ、狭い歩道を歩いたり、わざわざ歩道橋を渡らなければならないところもあって、ちょっと中途半端感があります。ここは東御市にもっとがんばってほしいなと思いました。
さて、先ほどの写真ですが、左側が崖になっていて、その上に住宅が見えるのがわかりますか。
ここで同行者に最後の質問をします。
「右側の線路の向こうには千曲川が流れています。そして左側はこのような崖。さて、このような地形を何といいますか?」
「……? 扇状地…じゃないし。う~ん…」
「これは簡単でしょ。小学校か中学校の教科書に載ってますよ。答えは〝河岸段丘〟です。」
「……カ・ガ・ン・ダ・ン・キュウ?? なんですかそれ?」
私は一瞬耳を疑いました。河岸段丘なんて超×3くらいの基本ですよね。大人になって忘れていることもあるのでしょうけど、ある意味義務教育の敗北のようなものを感じたのでした。
海野宿は素晴らしい歴史遺産でした。白鳥神社のところには広い駐車場もありましたので、車で訪れる人も多いのでしょう。でも、できれば今回の私たちのように、街道を歩いてみることで伝わる良さというのが必ずあるはずです。歩くスピードだから感じられる空気感や、さまざまな「?」を味わいながら、みなさんも海野宿を訪れてみませんか。
そうそう同行者のいたことの感想も書いておかなければいけないですね。
自分だけのペースで行動できないもどかしさも確かにありましたが、同行者がいることでの気づきや楽しさも味わうことができたのは間違いありません。またそのうち「そいつ」を引き連れてどこかに行こうかと思います。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
