長野県上田市
~城下町に息づく智略の遺伝子編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
北陸新幹線はくたか号は、長野駅の1つ手前、上田駅にゆっくりと滑り込みます。駅に停車する直前、左側の車窓に鮮やかな赤い鉄橋が目に入ります。千曲川にかかるこの鉄橋は、2019年の東日本台風により崩落してしまいました。そして、上田電鉄別所線は、532日間もの長い間運休を余儀なくされたのです。災害をきっかけに廃線になる例は全国各地にありますが、上田市では「別所線応援プロジェクト」を展開して寄付金を集め、上田電鉄も約8割の部品を再利用するなどして経費を削減し、復旧にこぎつけたのです。様々な工夫をして1つのことに立ち向かうという精神は、上田の街に根付いているのかもしれません。
上田駅の出口は、北側がお城口、南側が温泉口と名付けられています。北側には上田城があるのでわかりますが、南口の温泉は何を指すのでしょう? 実はこれ、先ほどの上田電鉄別所線の終点にある〝別所温泉〟のことなのです。電車に乗ると30分ほどかかるのですが、「別所線に乗って別所温泉に来てね!」という観光客へのアピールなんでしょうね。私も以前に訪ねたことがありますが、「信州の鎌倉」の名にふさわしい、とても情緒あふれる温泉でした。
私はお城口のほうに向かいます。
駅を出てまず目に入るのは、下の写真の真田幸村騎馬像です。

実はこの方、本当の名は真田信繁といいます。よく知られている幸村という名の由来ははっきりせず、生前に幸村と名乗ったという確かな記録もないそうです。ただ、読み進めていく上ではわかりにくいと思いますので、ここでは幸村で通すことにします。
もう1つだけ言わせてください。そもそもここに幸村の像があることも、私個人としては納得していません。上田の地で活躍したのは、幸村ではなくその父で、上田城を築いた真田昌幸なのです。幸村が活躍をしたのは大阪城ですからね。本来ここには昌幸の像が置かれるべきだと思うのですが、やはり人気のある幸村になってしまうんでしょうかねぇ…。
真田家の家紋としてよく知られているのが〝六文銭〟です。写真右側の時計にも六文銭が見えますよね。上田駅の壁にも六文銭がデザインされていますし、上田の街のあちこちにも六文銭を見ることができます。「六文銭を探してみよう」というのをテーマに街歩きをするのも楽しいかもしれないですね。
幸村像を後にして、駅前から北へ延びる道を進みます。駅から市街地へ向かうこの道は、緩やかな、しかし確実な上り坂になっています。これは上田の地形に理由があるのです。

上の地図を見てください。点線で囲んだところが「崖」になっているのがわかるでしょうか。川沿いの上田駅と比べて、北のほうは一段高い土地になっているということですね。もうわかりますよね。これは千曲川が長い年月をかけて大地を削ってできた「河岸段丘」です。この地形こそが、これから行く上田城の立地に関わってきます。

上田駅から徒歩で上田城に向かうときは、駅を出てすぐ左に曲がり、二の丸通りを通って二の丸橋に向かい、上の写真の東虎口櫓門に行くのが一般的でしょう。しかし私は、そのコースを行くことはありません。

駅からまっすぐに伸びる坂道を登って、中央2丁目という交差点まで行きます。ここを右に曲がると上田の中心部にある商店街です。余談ですが、商店街には〝高市神社〟というのがあり、通りに面して首相就任を祝う幟が掲げられていました。
話を戻します。中央2丁目交差点を左に曲がったところの道が、不自然に曲がっているのがわかるでしょうか? 点線で囲んだところには、上田城の大手門がありました。大手門というのは城の正門のことですね。そして、門には桝形という仕掛けが施されていました。門の内側に四角い広場のような場所を設けます。ここから城に入るには、直角に曲がって右または左にある門を通らなければいけません。侵入する敵は、ここで突撃スピードを落とし、逃げ場のない狭い空間に閉じ込められることになります。そこを城壁の上から3方向で一斉に攻撃するのです。つまり、この道路の曲線は桝形の名残なんですね。ここから上田城に向かうことで、先ほど書いた通り城の正面から入れるのです。やはり城には正面から入るのが礼儀というものでしょう。
大手門跡から上田市役所を左に見て、二の丸橋に向かいます。もうここは城の中ということになりますね。大手門から二の丸橋のあたりが上田城の三の丸で、付近には藩主の館もありました。
二の丸橋に到着しました。橋の両側には、下の写真のような文様がデザインされているのですが、これがなんだかわかりますか?
「上田城は真田家の後、江戸時代は他の大名もいたからその大名の家紋!」
…残念ながら不正解です。よ~く見てくださいね。
答えはあえて言わないでおきましょう。ヒントは「にのまるばし」です。

二の丸橋を渡ってそのまま進めば、東虎口櫓門や、幸村も祀られている眞田神社がありますが、私は橋の横の階段を下りていきます。階段の下は二の丸堀の跡ですが、もちろんそれだけを見るためが目的ではありません。

上の写真は先ほどの二の丸橋なのですが、橋の下のスペースが少し大きめだと思いませんか? 実はこの堀には、1972年まで上田交通真田傍陽線という鉄道が通っており、この場所は「公園前」という駅のホーム跡地なのです。なぜ城の堀に鉄道が通っていたのでしょう? 以前のブログ(~愛知県名古屋市 堀を走る電車編~)を読んでいた人はわかったと思いますが、いかがでしょう?
上田駅から北に延びていたこの路線は、河岸段丘の地形を克服しなければなりません。鉄道は坂に弱いので、河岸段丘の高低差を一気に上ることはできません。そこで、段丘上にある城よりも低く掘られたこの堀を通すことで、少しずつ高度を上げていったというわけです。確かに、堀に設けられた道は、南から北に向かって緩い上り坂になっています。

さて、堀の道を南へ下り、今度は城の南側に回ります。ここは、芝生広場や駐車場などの広いスペースになっています。そして、ここからは、河岸段丘の崖の上につくられた上田城の様子がよくわかるのです。この場所は〝尼ヶ淵〟といいます。かつては千曲川がここを流れ「淵」になっていたということです。千曲川という天然の堀と、段丘の険しい崖。上田城の南側は堅固な要塞になっていることがわかります。

この駐車場に車を止めて城を訪れる人も多いでしょう。しかし、この場所に長く留まる人は少なく、多くの人は崖の上の櫓のほうに足早に向かってしまいます。しかし、私はここからみる上田城こそ、この城の本当の良さがわかるところではないかと思うのです。みなさんが上田城を訪ねたときは、ぜひ尼ヶ淵から城を見上げてみてください。石垣のようすや、土がむき出しの崖からもいろいろなことがわかりますよ。
さて、先に進みましょう。
写真奥の櫓の先の石垣が途切れたあたりに、上に向かう狭い階段があります。ここを登ると上田城の本丸や眞田神社に行くことができます。そのまま東虎口櫓門を通って二の丸に抜けてもいいのですが、さすがにそれは失礼なので眞田神社に参拝し、昌幸や幸村に挨拶をしておきます。
ここで1つだけ観光ガイドをしておきましょう。眞田神社から東虎口櫓門を抜けたら、左側の石垣に注目してください。他の石に比べてとても大きな石がはめ込まれているのがわかると思います。この石には「真田石」という名が付けられており、幸村の兄信之が上田から松代へ移封を命じられたとき、父昌幸の形見として持っていこうとしたが微動だにしなかったそうです。ただしこの石垣は、真田氏の後に上田を治めた仙石氏によって築かれたものなので、どうやらこの話はただの伝承のようですね。でも、このような話が伝わるということは、上田の人たちの真田氏に対する思いが強かったということでしょう。
堀に沿って北へ向かいます。ここでも1つ見逃せないポイントがあります。堀の向こう側にある本丸の土塁に注目していてください。北東の角のところが欠けたようになっているのがわかると思います。これは「隅欠」といって、わざとこのような形にしているのです。
昔から北東の方角は鬼門とされ、鬼や災いが入ってくるとされていました。それを避けるために築城のときには鬼門除けを施しました。北東の方角に寺社を置くというのはよく知られていますよね。京都の延暦寺や江戸の寛永寺がその例です。その他にも〝あかずの門〟をつくったり、建物の一部をへこませたりするといった例もあるのですが、上田城の場合は土塁の一部をへこませることで鬼門除けにしていたのですね。地図を見ると上田城の北東の方向に寺院の地図記号が多く見られますが、これも鬼門除けなのでしょうね。
さらに北へ進むと、左手に陸上競技場が見えてきます。この陸上競技場は、城があるところよりも一段低い位置にあり、坂を下ったところにあるのが下の写真の石樋遺構です。

石垣から出ているこの穴は、先ほどの二の丸堀の水を抜くためのものだそうです。ここから水が出ていて、その先にある陸上競技場は低い位置にある…。もうわかりましたよね。陸上競技場があるところは、昔は水を湛えた堀で、上田城の北はこの広い堀によって守られていたのだということです。
下の地図を見てください。陸上競技場や野球場、さらにその先の上田高校のグラウンドまで、低くへこんだところが続いているのがわかると思います。この全体が水堀だったとしたら、南側の尼ヶ淵と同様に、北から攻め込むのもかなり困難だということがわかると思います。
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真田昌幸が上田城を築いたころ、真田氏は、徳川氏、上杉氏、北条氏といった強大な大名たちに囲まれていました。そこで昌幸は、同盟関係にあった徳川家康を説得し、資金や人手を援助させてこの上田城を築き始めたのです。
城が完成に近づいたころ、北条氏と和解した徳川家康は、昌幸に対して真田領だった沼田(群馬県)を北条氏に渡すように命じます。沼田は昌幸が戦いの末に勝ちとった領地で、家康から与えられたものではありません。そこで昌幸は家康と手を切り、今度は上杉と同盟を結んでしまいます。徳川の力を利用して城を築き、今度はその城にこもって徳川を迎え撃つ…。昌幸の、恐ろしいほどのしたたかさが伝わってきます。節操がないと思う人もいるかもしれませんが、これこそ戦国時代に小勢力が生き残るための〝智略〟なのです。
激怒した家康は、約7000の大軍を上田に送り込みます。真田軍との兵力差は圧倒的です。先ほど歩いてきたルートを思い浮かべていただければ、北と南から攻め込むのが困難なことはわかりますよね。徳川軍は東から上田城を攻撃します。昌幸はそこに様々な「罠」を仕掛けていくのです。そして、その罠に嵌った徳川軍は多くの戦死者を出して撤退します。
さらに1600年には、後に江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠が率いる約3万8000という大軍が上田城に押し寄せます。対する真田軍は3500ほど。しかし、昌幸は再び上田城の頑強な守りと巧みな戦術で徳川軍を翻弄し、秀忠の軍を足止めします。その結果、秀忠は関ヶ原の戦いに遅刻するという、代々語り継がれるほどの大失態を演じることになるのです。
冒頭で、上田駅前には幸村ではなく昌幸の像が置かれるべきだと言ったのがわかっていただけたでしょうか。これほど圧倒的な兵力差を、地形の利と知恵だけで2度もひっくり返した昌幸こそ、上田の街が誇るシンボルとしてふさわしいと思うのです。
また、台風で崩落した千曲川の鉄橋を、市民や鉄道会社が様々な工夫で復旧させたことも書きましたよね。圧倒的な逆境に対して智略の限りを尽くして立ち向かうのが、400年前に巨大な敵を退け続けた上田合戦と似ていると思うのは私だけでしょうか。真田昌幸の遺伝子は、まちがいなくこの地に息づいていると思います。

もう少しだけ、上田の街歩きを楽しんでいきましょう。
陸上競技場を左手に見て進み、突き当りを右に曲がります。10分ほど東へ進むと、左側に風景がガラリと変わる一角があります。かつての北国街道の面影を色濃く残す、「柳町」です。下の写真のような白壁の土蔵造りや千本格子の家々が並ぶこの通りは、かつて参勤交代の諸大名や旅人が行き交った宿場町でした。

北国街道は、江戸幕府によって整備された道です。その目的は、佐渡島で採掘された金を江戸に運ぶためでした。つまり、北国街道は江戸幕府の財政を支える重要な「金の道」だったのです。さらに、参勤交代が始まると、加賀百万石の前田家をはじめとする多くの大名たちが利用する道にもなりました。今は静かなこの道も、江戸時代は多くの人々が行き交っていたことでしょう。一歩足を踏み入れると、江戸時代の喧騒が今にも聞こえてきそうな気がします。
現在、この柳町には、古い建物を活かしたパン屋や酒蔵、カフェなどが軒を連ねています。休日には多くの観光客で賑わうのかもしれませんね。
いくつかの店に立ち寄りながら北へ向かって歩いていくと、正面に「保命水」と彫られた石柱がありました。石碑の奥にはこんこんと水が湧き出ている石造りの井戸のような水場があります。ここで1つ「?」が浮かびました。この場所は河岸段丘の上ですから、井戸を掘るのは大変なはずです。
横に立てられていた説明書きを読むと、その「?」の答えが書いてありました。保命水は、付近の海禅寺の境内に湧く水を、柳町の人々が木管を繋いで引いてきたものなのだそうです。そして、上田の街に上下水道が整備されるまでの間、柳町の人々の生活用水として利用されていました。まさに「命を保つ水」だったわけですね。
水を手に入れるのが難しい場所に、知恵を絞って水を引いてくるというのも、上田合戦や鉄橋の復旧に通ずるものがあるようですね。宿場町の面影を残す柳町を歩き、歴史と地形が教えてくれる人間のたくましさに深く感動しつつ、心地よい充実感とともに上田駅へと坂を下っていきました。
そうそう、上田に来たのにはもう1つの目的がありました。それは、上田名物の〝美味だれ焼き鳥〟を食べること。駅前の店に入ってしばし楽しみ、その味がすっかり気に入った私は、エキナカの店でお土産に〝美味だれ〟を買って、帰りの新幹線に乗り込んだのでした。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
