~長野県千曲市
時を結ぶ〝宝〟編~
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
長野駅から乗り込んだ松本行きの電車は、篠ノ井駅を出ると右に大きくカーブしていきます。次の稲荷山駅までは、ここまでと同様に千曲川沿いの平坦な土地を走ります。ところが、稲荷山駅を過ぎた途端、電車は重々しいモーター音を響かせます。車内にいてもわかるほどの坂を力強く登っていき、見る見るうちに標高を上げていきます。左側には、先ほどまで自分がいた善光寺平の風景が見えるのですが、まるで飛行機が離陸するときのように小さくなっていきます。
そんな車窓を楽しんでいると、電車は徐々にスピードを落として停車します。駅に到着したのかと思ったのですがドアが開くことはなく、窓の外を見ても駅のホームはありません。しばらくすると、電車は反対方向にゆっくりとバックし始めます。そうなんです。この姨捨駅はスイッチバックの構造になっている駅なんです。
先ほどから、電車は坂を登っていましたよね。以前のブログでも何度か書いたと思いますが、鉄道は坂に弱い乗り物なのです。現在の電車は問題ないのですが、昔の汽車はパワーがなかったので、坂の途中で止まってしまうとそのまま動けなくなってしまいました。自転車で急な坂道の途中で止まっちゃうと、こぎ出すのが大変ですよね。あれと同じです。そこで、急な坂道の途中に、平らな行き止まりの線路を枝分かれさせて、そこを駅のホームにしたのです。

上の地図を見てください。赤い線が篠ノ井線の線路、青い四角が姨捨駅のホームです。ホームが線路と異なる位置に設けられているのがわかりますよね。地図の上のほうが長野駅方面ですから、私の乗ってきた電車がホームに入るには一度行き過ぎてバックしなければならないことがわかると思います。駅名標も、下の写真のように、駅の構造がわかるものになっていました。

姨捨駅に停車した電車内からは、何人かの人がホームに出てきました。しかし、発車時刻が近づくと、私を除く全員が電車の中に戻っていきます。結局、姨捨駅で下車したのは私ひとりだけでした。なぜ、人々がホームに出てきたかというと、ここ姨捨駅は「日本三大車窓」の1つに数えられる、眼下に善光寺平を一望できる場所なのです。
電車が出ていくのを見送り、誰もいなくなったホームから、改めて眼下の絶景を眺めます。三大車窓の名に恥じない、空に浮かんでいるような不思議な感覚です。残念ながら今日は少し霞んだ感じになってしまって、あまり遠くの方までは見渡せなかったのですが、それでも広々とした風景を楽しむことができます。また、今見下ろしているこの場所で、あの川中島の戦いがあったわけで、「もしかするとここから武田・上杉両軍の動きが見えたのかもしれないな」なんて思うと、なんとなくわくわくするような気持ちにもなるのでした。
さて、ここからは自分の足で歩いてみましょう。
駅を出て踏切を渡ると、目の前に現れるのが国の名勝にも指定されている「姨捨の棚田」です。
みなさんは、「田毎の月」という言葉を聞いたことがありますか?
姨捨の棚田は、下の写真のように斜面に沿って小さな田んぼがいくつも重なっています。5月ごろ、それぞれの田んぼに水が張られると、夜空に浮かぶ月がその一枚一枚の水面に映り込みます。
歩くたびに、隣の田んぼ、またその隣の田んぼへと月が次々に移り変わっていく…。まるで、すべての田んぼにひとつずつ月が入っているように見えることから、「田毎の月」と呼ばれるようになりました。「田毎」というのは「すべての田んぼ」といった意味です。

あの松尾芭蕉もこの地を訪れ、「俤や姨ひとりなく月のとも」という句を詠んでいます。この句を現代の言葉に訳すと、こんな意味になります。
「今、目の前の美しい月を見上げていると、かつてこの山にひとり捨てられ、月だけを友として泣いていた、あのおばあさんの面影が目に浮かんでくるようだ・・・」
「おばあさんが捨てられた? それってどういうこと?」
実はこれ、この地に古くから伝わる「姨捨伝説」のこと。それは次のようなお話です。
「昔、お年寄りが嫌いな殿様が『60歳になったら山に捨てろ』という非情な命令を出しました。
ある若者もその命令に従い、母を背負って山を登っていきました。すると、背中の母は道々で木の枝を折っていました。息子が帰り道で迷わないようにという親心だったのです。これに心打たれた若者は、母を連れ帰りこっそり床下で養うことにしました。その後、殿様は隣国から『灰で編んだ縄を作れ』といった数々の難題を突きつけられていました。それを救ったのが、床下の母が授けた知恵でした。お年寄りの経験と知恵は〝宝〟なのだと気づいた殿様は、すぐに命令を取り消しました。」
私が訪れたのは3月末でしたから、「田毎の月」のような風景にはまだ早い時期です。しかし、この時期ならではの感動というものもあるものです。水が入っていないからこそ、1つ1つの田んぼの形がよくわかります。土をていねいに盛り上げ、踏み固めることで作られた1つ1つの田が、山肌に迷路のような曲線を描き出しています。重機もない時代に、これほど急な斜面を一段ずつ人の手で形作り、崩れないように手入れし続けてきた先人たちの、果てしない努力が伝わってきたのです。
「でも、やっぱり水の入った田んぼを見てみたかったなぁ…。」
…とそんな思いは閉じ込めて、棚田の造形美を楽しみながら、気持ちよく坂を下っていきました。
しばらく坂を下ったところで左に折れて、長楽寺という寺院を目指すことにしました。ところが、下に向かう道はあるのですが、左に折れた道はことごとく行き止まり。地図を確認したところ、途中に川があることがわかりました。長楽寺に向かうにはもう少しこの坂を下って、川を越えたらまた上っていかなければならないのです。下るときには膝にダメージがあるような急坂です。これを10分ほど登らなければならない…。
こういうときにスマホって便利ですよね。調べてみたところ、20分ほど歩いたところに目的地にできそうな場所があることがわかったのです。
ここに来るまで知らなかったのですが「信州三大神社」というものがあるとのこと。私も2つ目まではすぐに思い浮かびました。諏訪大社と戸隠神社ですね。どちらも有名な観光地となっていて、私も以前に訪ねたことがあります。「2つは訪ねたのだからこれで信州三大神社をコンプリートできる!」と自分を納得させ、坂を下っていくことにしたのです。もっともらしいことを言ってますが、要は坂を登りたくなかっただけなんでしょうけど(笑)
坂を下りきって平らな場所に出てしばらく歩くと、下の写真のような立派な鳥居が見えてきました。
信州三大神社の3つ目「武水別神社」です。

鳥居の先には太鼓橋があり、神社の境内に入っていきます。すると両側にレンガの塔が立っていることに気がつきました。武水別神社は、奈良時代に創建されたという歴史の古い神社です。レンガ造りは明治時代以降なので、なんとなく違和感があったのですが、おそらくこの地域の方々が奉納したものなのでしょうね。
先に進んでいくともう1つ鳥居があり、その先にあったのが下の写真の拝殿です。
写真をよく見てください。拝殿の奥のほうに、もう1つ神社のようなものが見えるのがわかるでしょうか。実はこれが武水別神社の本殿なのです。本殿というのは神様がいらっしゃる場所、拝殿は私たちが神様を拝むための場所です。小さな神社は本殿だけしかありませんが、規模の大きな神社では本殿の前に拝殿があり、参拝者は拝殿で手を合わせます。そういった神社の本殿は壁の向こうにあって近づけないというのが一般的だと思います。
ところが、武水別神社は拝殿と本殿の両方に参拝できるようになっているのです。まるで、神様の懐まで一歩踏み込めるような、オープンな造りですね。「これはどちらにお参りすればいいんだ?」とちょっと悩みましたが、せっかくなので両方にご挨拶させていただきました。

参拝の後に本殿の裏側に行ってみたところ、ちょっと興味深いところがあったので紹介しておきますね。それは十二神社というところです。ここには、天神7社・地神5社の12の神々が祀られています。これだけだとよくわからないと思いますが、天神の7代は日本をつくった神様として知られる伊邪那岐神・伊邪那美神、地神の初代は天照大神だそうで、要は日本ができたころを神様がまとめて祀られているということですね。1か所でたくさんの神様にご挨拶できる、ちょっとお得なスポットだと思います。

参拝を終えて参道を引き返します。中鳥居を抜けると右手のほうに1つの石碑があります。
前回のブログで「川中島の戦いは5回くり返されている」と書いたのを覚えているでしょうか? 実はその1回目の戦いがおこなわれたのが、この武水別神社の近くだったのです。石碑には「川中島の戦い初戦の地八幡」の文字が刻まれていました。
1553年に北信濃に侵攻した武田信玄に対し、この地を治めていた村上義清は越後の上杉謙信に助けを求めます。それに応じた謙信はこの地に侵攻し、信玄との初めての戦いを繰り広げるのです。・・・とはいっても、信玄と謙信が直接戦うことはなく、両軍とも領地に引き上げていきました。結果としては、謙信が信玄の侵攻を食い止めたということになるでしょう。しかしこれをきっかけに、12年間にわたる宿命のライバル対決が幕を開けることになったのです。
ここで、第1回の戦いと、前回のブログに書いた第4回の戦いの起こった場所に注目してみましょう。第1回の戦いがあったここ千曲市は、長野盆地の南の端にあります。この戦いでは、信玄はこれより北に進むことなく引き返したんですよね。でも、第4回の戦いがあった場所は、ここからさらに10㎞以上北東にあります。武田軍の拠点だった海津城もその付近にあるわけですよね。
第4回の戦いがあったのは1561年ですから、およそ8年間の月日が流れていることになります。信玄は、第1回の戦いでは果たせなかった北信濃への侵攻を着々と進めていったのでしょうね。こんなところにも、彼のしたたかさが垣間見えるようです。
「救うため」に戦った謙信。「手に入れるため」に戦った信玄。
戦国の英雄二人が戦う目的は、初めから違っていたのでしょう。だからこそ、お互いの意地と意地がぶつかり合い、あの激しい戦いにつながっていったのかもしれません。

さて、ここからの最寄り駅は、先ほどの姨捨駅が約3㎞、しなの鉄道の屋代駅が約4㎞です。でも、距離は短いものの、姨捨駅に行くにはあの坂を登らなければならないわけですね。迷わず屋代駅を目指すことにしました。4㎞ですから1時間くらいで歩けそうです。平坦な道なので楽勝だと思いながら、念のためバス停を確かめてみたところ、それほど待たずにバスがやって来ることがわかりました。これはもうバス一択ですね😊
さて、待ち時間をどうしようと思ったのですが、境内の入り口のところに「名物うづら餅」と書かれた看板を見たことを思い出しました。疲れたときには甘いものが欲しくなるもので、バスが来るまでの間この茶屋でひと休みすることにしました。「ず」ではなく「づ」の字を使っているのにも、なんとなく歴史を感じますね。

昔、神社の東側には千曲川の河原があって、その葦原には、たくさんの鶉が群生していました。そのことから、本殿の大黒柱には4羽ずつ鶉が彫刻されていて、それがうづら餅の由来だそうです。暖かな日差しの中、屋外の席でいただく甘いうづら餅と温かいお茶は、歩き疲れた体に染み渡ります。もちろん、茶屋のおばあさんのあったかいもてなしにも心が癒されました。
バスの時間が近づいてきたので、おばあさんにお礼を言ってバス停に向かいました。しばらく待っていると、地元の方らしいおじいさんがやって来ました。バスはだいたい1時間に1本という少なさなのでちょっと不安になり、おじいさんに確認をしたところ間違いなく来るようです。それをきっかけに少しの間でしたが話をさせていただきました。おじいさんは、屋代駅の近くに用事があってバスを待っていたのですが、やはり自家用車を持たずにこの地で暮らすのには不便なことも多いようですね。それほど運行本数の多くないバスや電車の時間に合わせて生活せざるを得ないとのことでした。
そんな話を聞いていると、自分が普段いかに便利な生活をしているかということが思い知らされます。目の前で電車が行ってしまっても、5分も待てば次の電車が来るというのは、決してあたりまえのことではないのですね。5分待つことにイラっとしている自分を思い浮かべ、ちょっとだけ反省をしたのでした。
屋代駅に到着して電車の時刻を確認すると、次の電車は約20分後。
もうそれくらいのことでイライラすることはありません。ぽかぽかの日差しに包まれながら、ホームのベンチに腰掛けてのんびりと電車を待つことができました。まるで姨捨伝説のように、私もお年寄りから〝宝〟をいただいたのかもしれませんね。
さてさて、帰宅して普段の生活に戻ったら、この〝宝〟の効果はいつまで続くのでしょうかね…。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
