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~山梨県甲府市
  ひと駅前で降りてみました編~

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

甲府市に行くときはいつも中央線の特急電車を使うのですが、今回は各駅停車を利用してのんびりと向かっています。時間に制約のないときには、ゆっくりと景色を眺めながらの旅もいいものです。
もう少しで甲府駅に着くのですが、予定よりも早く着きそうです。どうやって時間をつぶそうかと考えていたところ、ふと車窓から見えた山々に気持ちを動かされたのか、「歩きたい」という衝動を抑えられなくなってしまったのです。

気がついたときには、甲府駅の1つ前の酒折駅でふらりと電車を降りていました。
数人の下車客はすぐに改札を出て行ってしまい、静かな無人のホームに取り残された私には、少しだけ「やっちまったかな…」という後悔がよぎりました。
そうそう、下の地図を見ると、間に金手という駅がありますが、これは身延線の駅なので中央線の列車は止まりません。ちなみに金手駅は「かねんて」と読みます。なかなかの難読地名ですね。その由来は、このあたりの道が「鉤手かぎのて」になっていることだそうです。鉤手というのは、直角に曲がった道のことで、これについては以前のブログ(福島県会津若松市 ちょっと不思議なクランク編)で紹介しています。

さて、ここから甲府駅までおよそ5㎞。「ひと駅分歩けば何か面白い発見があるはずだ」という根拠のない期待だけをお供に、散策をスタートさせることにしました。
酒折駅の改札を出て振り返ると、北側に険しい山々が間近に迫っているのがわかります。駅前の道を進むと国道に出たので右に曲がり、とりあえず甲府駅方面に歩いていきます。このまま国道を歩いて行っても甲府駅には行けるのですが、少し歩いたところに「⛩酒折宮さかおりのみや→」という標識を見つけ、それに従って右に曲がって細い道を進んで行くことにしました。しばらく行くと石造りの鳥居があり、その先の中央線の踏切を渡ると、酒折宮の社殿が見えてきました。

上の写真のように、それほど大きくもないどこにでもあるような神社なのですが、実はここ、山梨県では唯一『古事記』や『日本書紀』にも登場する歴史ある場所なのです。この神社のご祭神は日本武尊やまとたけるのみことで、なんと1900年もの歴史があるのだとか…。そんなことを知ると、なんとなく空気感も違ってくるように思えるから不思議です。いつもよりもていねいに参拝をして、境内を散策していると、下の写真の石碑を見つけました。

石碑には「新治にいばり 筑波つくばぎて幾夜いくよつる かがなべて には九夜ここのよ には十日とおかを」と刻まれていました。ふりがなが振ってあるのは親切ですよね。これは1つの和歌のようにも見えますが、実は前半と後半ではんだ人が異なるのです。
前半の「新治 筑波を過ぎて幾夜か寝つる」は日本武尊の問いかけで、「新治、筑波の地を通り過ぎて、ここまで幾晩寝たのか」という意味です。それに対して後半の「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」は、そこで焚き火の番をしていた老人の返答で、「日数を重ねて、夜では九夜、昼では十日ですよ」という意味です。このことから、ここ酒折宮は「連歌れんが発祥の地」とされているのだそうです。「連歌」とは、一人が五・七・五を詠み、別の人がそれに続く七・七を詠むというように、複数の人で歌を交互に繋いでいくもので、昔の知識人の高度な遊びでした。明智光秀が本能寺の変の数日前に連歌の会に参加して、「ときはいま あめがしたしる 五月ごがつかな」と詠んだ話はよく知られています。意味は………自分で調べてみてください。ヒントは光秀の出自と、「あめがした」という言葉の響きにあります。

境内は驚くほど静かです。先ほどの国道は平坦なところを通っており、道沿いには住宅や店が建ち並んでいました。日本武尊は、なんでわざわざ山裾にあるここを通ったんでしょうかね?
以前のブログ(山梨県甲斐市 武田信玄の治水事業編)でも紹介しましたが、甲府盆地の中央部は、笛吹川や荒川といった複数の川が流れ込んでいて、水害が頻繁に起こる土地でした。治水などおこなわれていなかった古代は湿地帯だったかもしれません。そのような土地では、人が住んだり移動したりするのは難しいですよね。おそらく古代の旅人たちは、起伏はあっても歩きやすい山裾を通ったのではないでしょうか。
甲斐国から他の国に通じる道が9つあったそうなのですが、それらの道はすべてこの酒折の地を起点にしていたそうです。今はとても静かな場所ですが、かつてのこの場所は甲斐国の中心地だったんですね。

古代のこの場所の様子を想像しながら、酒折宮を後にして西へ向かいます。

酒折宮を出ると少しだけ下り坂になっており、その先は住宅街の中の平坦な道を進んでいきます。5~6分歩いて信号のある交差点に出ると、右手に立派な山門が見えます。電柱の住所表示を見ると「善光寺三丁目」と書いてあります。善光寺といえば長野市ですよね。ちょっと不思議に思いながら、山門に向かって歩いていくことにします。

上の写真のような立派な山門の前には、確かに「善光寺」と書かれた石碑がありました。ただ、ちょっと気になるのは「甲州」の2文字。わざわざこの文字をつけているということは、信州の善光寺とは区別しているということですよね

実はこのお寺、あの武田信玄が建立したものなのです。川中島の戦いの際、信州の善光寺が戦火に巻き込まれるのを恐れた信玄が、本尊や宝物を一時的にこの地に移したのが始まりです。
下の写真の本堂は圧巻と言っていいほどの巨大さです。この立派な建築は、東日本最大級の木造建築の1つと言われているそうですが、それも納得です。
信玄は天下統一の野望をいだいていたといわれています。もし、信玄が天下を治めることがあれば、甲府はその中心になったのかもしれません。日本の中心にふさわしい寺院を建てることで、天下統一への意思を盤石なものにするという信玄の思いが詰まったのが、この甲州善光寺なのかもしれませんね。

ところで、信玄が信州から運んできた「善光寺本尊」ですが、その後はどのような運命をたどったのでしょう?
武田氏は、信玄の子勝頼かつよりのときに、織田信長によって滅ぼされます。信長は、善光寺本尊を岐阜へと持ち去りました。しかし、その直後に本能寺の変が起こると、今度は信長の子信雄のぶかつによって尾張の甚目寺じもくじへと移されます。その後、徳川家康の手によって浜松の鴨江寺かもえじを経て、甲府へと戻されたのですが、今度は豊臣秀吉によって京都の方広寺ほうこうじへ安置されることになります。まさに、時の権力者たちの手から手へと、「天下人の証」であるかのように渡り歩いたわけですね。
ようやく信州の善光寺に本尊が帰還したのは、信玄が持ち出してから実に約40年後のことでした。甲州善光寺には、「身代わり」として新たに造られた仏様が安置されています。この仏様は、信州の本尊と全く同じお姿を映したもので、要するにコピーということですね。コピーだからといってがっかりすることはありません。この仏さまは、善光寺本尊の「前立仏まえだちぶつ」としての役割を果たしてきました。前立仏というのは、秘仏の代わりに、いつでも拝めるようにその手前に立てられた仏様のことです。信州の善光寺の本尊は絶対秘仏で誰もその姿を見ることはできませんからね。

この善光寺は、武田氏を攻めた信長が本陣を置いたところでもあります。信玄の存在は、長い間信長にとって〝目の上のたんこぶ〟でした。その信玄が建立した巨大な寺院から、これもまた信玄が築き上げた甲府の街を一望した信長の気持ちはどんなものだったでしょうね。武田の繁栄を願って建てた聖域が、皮肉にも武田家最期の時を見届ける場所になってしまったことを思うと、戦国時代の無常を強く感じざるを得ません。

善光寺からさらに西へ向かいます。このあたりの道は住宅とぶどう畑の間を抜けていきます。いかにも山梨県らしい風景ですよね。行く手の方向には山が見えてきました。甲府駅に向かうには、あの山を越えるか迂回するかしかありません。中央線の線路も、南に突き出た山の裾ギリギリのところを通っているようです。

しばらく歩くと、右手に「東光禅寺」という石碑が現れました。武田信玄は、京都や鎌倉に因んで、「甲府五山」を定めており、東光寺はその一つに数えられる名刹めいさつです。この寺院には、背後の山を借景として巧みに取り込んだ見事な庭園があることでも知られています。ここでも静かな時間が流れ、ゆったりとした気持ちで庭園を眺めることができました。

しかし、その一方で、この東光寺には、武田一族のあまりにも過酷な宿命が刻まれています。
ここには、二人の人物が眠っています。一人は、武田信玄の嫡男ちゃくなんだった武田義信よしのぶ。もう一人は、信玄によって滅ぼされた諏訪氏の当主、諏訪すわ頼重よりしげです。

戦国時代を代表する武将の1人である信玄は、今でも山梨の人からは「信玄公」と慕われ、甲府駅前に大きな像があるのは有名です。しかし、その一方では、戦国時代ならではの非情な一面があることも忘れてはいけません。
信玄は、信濃への侵攻を有利に進めるため、同盟を組んでいたはずの諏訪頼重を突如裏切り、甲府へと連行します。そしてここ東光寺で、頼重を切腹に追い込んだのです。そして頼重の娘は、なんと父を殺した信玄の側室となり、のちに勝頼を産むことになります。信玄は、勝頼を諏訪氏の跡継ぎにすることで、諏訪の支配を固めようとしたのです。

そして、武田家の跡を継ぐはずだった義信です。
義信の妻は今川氏の娘でした。桶狭間の戦いで今川義元を失った今川家は急速に衰えていきます。信玄は今川氏を倒して駿河国を手に入れようとします。戦国大名としては当然でしょう。しかし義信は、それを非情な政策として反対し、ついには父への謀反むほんを疑われてこの東光寺に幽閉され、命を落とします。まだ30歳と若かった義信には、信玄のやり方が義に反していると思えたのかもしれません。しかし、それは弱肉強食の戦国時代を生き抜く武士としては甘いような気もします。
結果、武田家の跡継ぎは信玄の思惑とは異なったものになり、これが後の武田家滅亡の原因になったというのは考えすぎでしょうか。美しい庭園もある東光寺ですが、このような残酷ともいえる歴史を知った上でその風景を眺めてみると、なんだか複雑な気持ちになります。

ところで、東光寺が二人の幽閉の場所になったのは、下の地図を見ればわかります。西と北は愛宕山の山裾になっており、侵入することは難しそうです。東にも山がありますので、南だけを警戒すれば万全な警備ができそうです。武田氏の本拠地である躑躅ヶ崎つつじがざき館の立地と似ていますよね。頼重も義信も重要な人物ですから、奪還しようとする勢力もあったのではないでしょうか。

上の地図には、先ほどの金手駅の地名由来となった「直角に曲がった道」も確認できますね。
ただ、今回は東光寺から愛宕山の裾に沿って南に向かい、線路の北側に並行する道を通って、甲府駅に出ることにしました。このあたりには寺院も多くあって、そのいくつかを見学しながら進んでいきます。
線路の北側の道は意外に起伏が多く、もしかすると、少し遠回りになりますが、南側の道を通ったほうが楽だったかもしれません。

酒折駅から歩き始めて約3時間、ようやく賑やかな甲府駅が見えてきました。
電車ならわずか数分で通り過ぎてしまうひと駅ですが、歩いてみると、古代の英雄の足跡から武田家の歴史まで、驚くほど濃密な時間が流れていました。

効率だけを求めれば、ひと駅前で降りるなんて無駄なことなのでしょう。でも、その無駄の中にこそ、新たな発見や感動があるのかもしれません。ひと駅散策、ちょっとハマりそうです。

みなさんの街にも、いつも通り過ぎている「ひと駅」がありませんか?

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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