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~愛知県新城市
 用意されていた敗北編~

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

1575年に起こった長篠の戦いは、新しい時代を切り拓く織田信長が、旧勢力の象徴のような武田氏を破った戦いと位置づけられ、私が学んだ教科書には「織田軍は3000挺の鉄砲を三段構えに配置して連射し、突撃する武田軍の騎馬隊を撃破した」というような説明が書いてあったと記憶しています。リンスタのテキストに掲載されている長篠の戦いの絵図を見ても、馬防柵を築いた織田軍が多くの鉄砲を構えているところに、武田軍の騎馬隊が攻めかかっていく様子がわかります。武田勝頼は鉄砲の重要性をわかっておらず、戦国最強と言われた武田騎馬隊の力を過信して敗れたのだと、まさに新勢力対旧勢力の構図で記されていたんですね。私も「連射することが困難だった火縄銃の欠点を斬新な発想で克服した信長はやっぱり天才なんだなぁ」と、ずっと思っていたのです。

ところが、最新の研究では、前述したような長篠の戦いの様子は、かなり事実と異なるのではないかという見方になっているのだそうです。
まず、当然のことですが、武田軍も鉄砲を戦いに用いていました。むしろ、東日本の大名の中では、かなり早い段階で鉄砲を採り入れていたのが武田氏です。ということは、武田勝頼も鉄砲の重要性は十分に認識していたはずですよね。
また、三段構えでの鉄砲の連射というのも事実ではないようで、実証してみたところ、短い間隔で連射をするのは難しかったということです。いずれにしても、従来の見方のように、「鉄砲隊対騎馬隊」というような単純な構図でないことは確かなようですね。

そこで、実際に戦場を訪れてみて、戦いの様子を実感してみようとJR飯田線に乗り、曇り空の茶臼山駅に降り立ちました。長篠の戦いがおこなわれたのは旧暦5月21日、現在のカレンダーにすると7月9日ですからちょうど梅雨の真っ最中です。おそらく当日もこのようなどんよりとした天気だったのでしょうね。

小さな駅の前は住宅が立ち並んでいましたが、2~3分も歩くと畑が見られるようになり、広い国道に出るころには、とてものどかな風景になっていました。国道の交差点にコンビニがあったので飲み物を買い、古戦場に向かって再び歩き始めます。駅から20分ほど歩いてやって来たのが、下の写真の八剱やつるぎ神社です。ここは、長篠の戦いのときに、徳川家康の本陣が置かれたところです。

長篠の戦いは、織田軍と武田軍の戦いと思っている人も多いと思いますが、この戦いは家康の領地だった三河国に武田氏が侵攻してきたことが発端となっています。信長は、家康に援軍を求められてこの戦いに参加しているというわけで、むしろ戦いの中心は徳川軍と見ることもできるでしょう。
実は、この前年に武田勝頼が家康の支配地だった高天神たかてんじん城(現在の静岡県掛川市)を攻めています。家康は、信長に援軍を求めたのですが、その軍隊は遅々として進まず、なかなか戦場にやって来ません。その間にも武田軍の攻撃は続き、結局高天神城は落城してしまったのです。このようなできごとがあったため、もしかすると武田勝頼は「また信長はやって来ないだろう」と油断していたかもしれませんね。しかし、前年とは打って変わり、このときの信長はとても早く戦場に駆けつけたのです。ただ、前掲の地図を見ると、信長は家康のかなり後方に陣取っていることがわかります。これだけを見ると「やっぱり信長は積極的に武田と戦いたくないのかな」とも思ってしまいますね。

神社の入り口には「徳川家康本陣跡」という大きな看板があったので、階段を上ってみたのですが、どこがその場所なのかはっきりとはわかりませんでした。そこで、神社のある山に沿った道を進んでいったところ、右に折れる坂道があったので、家康本陣が置かれていたであろう山の上のほうに向かってみることにしました。地図で見るよりもずっと長くて急な坂を進んでいったのですが、やはり家康の本陣をはっきり確認することはできませんでした。坂を上りきると右手には工場があったので、家康の本陣跡は工場の敷地内なのかもしれません。
その先にはまた急な下り坂が見えてきました。この坂の様子から考えると、家康の本陣を攻めるのはなかなか大変だろうなということが実感できます。坂を下りきると視界が開け、左に曲がったところの先には〝馬防柵〟が再現されていました。長篠に出陣する際、信長は兵士たちに丸太と縄を1つずつ持ってくるように命じました。そして戦場に着くと、その丸太と縄を使って武田の騎馬隊の進行を阻止するための柵を築かせました。それが馬防柵です。 長篠の戦いを描いた絵図を見ると、馬防柵は平らなところに設置されており、ちょっと押せば倒れてしまいそうにも見えます。これだけだと大軍が一気に攻め寄せれば簡単に攻略できてしまいそうです。再現されている馬防柵もそのようなものが多いのですが、下の写真のように実際の文献に基づいて再現されているものがありました。

写真からはわかりにくいかもしれませんが、柵の前面には堀が築かれており、柵の奥には土塁が設けられています。これが実際の馬防柵の姿であれば話は変わってきます。ここを攻めるのは、ちょっとした城を攻めるのと変わらないでしょう。しかも背後は山ですしね。このようなところに、武田軍が単純に突撃をくり返したとすればそれはあまりにも無謀で、数々の戦いを経験してきた武将たちがそんなことをしたとは考えにくいですよね。おそらく、武田軍は柵の設けられていない北側または南側から攻めていったのではないかと思うのです。

今年は、長篠の戦いから450年にあたる年ということで、馬防柵の前には下の写真のような田んぼアートをみることもできました。このあたりは、当時もこのように田んぼが広がっていたのでしょうかね。だとすると、徳川軍からは武田軍の様子がよく見えたのではないかと思います。

さて、今度は向かいにある山のほうに向かってみます。この山には武田勝頼の本陣が置かれ、武田軍はこの山を背に布陣していました。
再び急な坂を上ったところに、設楽原歴史資料館があったので、中に入ってみることにしました。戦いについて詳しく学べるかなと期待したのですが、その展示はそれほど多くなく、特に新しい発見はありませんでした。ただ、火縄銃の展示はかなり充実しており、これは見ごたえがありました。
ひと通り展示を見た後はエレベーターで屋上に上り、古戦場の風景を見てみることにしました。下の写真は、資料館の屋上から、先ほどの馬防柵のあるところを眺めたものです。馬防柵の奥のほうに徳川軍の部隊がいるということは、この風景は武田勝頼が見た風景に近いということになるのでしょうね。

ここで気づいたことがあります。
もしこの風景が武田勝頼の見たものと同じだとすると、家康のさらに後方に陣取っている信長の姿は見えなのではないでしょうか。もしかすると勝頼はこのように考えたかもしれません。「前年の高天神城のこともあるし、また信長は戦いを避けるのではないか。目の前の家康を破れば戦いの決着はつくのではないか」と。
そして、馬防柵の切れている両端から攻め入ったところに信長軍が待ち構えており、深入りした武田の武将たちは次々と討ち取られていったのでしょう。信長は、馬防柵だけでなく、さまざまな面において用意周到だったということではないでしょうか。

勝頼がどのような風景を見たのかということを確かめたくなった私は、その本陣が置かれていた場所に向かうことにしました。地図を見て資料館の北の方にあることはわかったのですが、そこまでの道が見つけられません。おそらくどこかで道を外れて森の中を歩かなければならないのでしょうけど、その入り口がなかなか見つかりません。しばらく探してようやく「武田勝頼本陣地跡」と書かれた小さな看板を発見しました。そのとなりにある道案内には「この右手奥四百m先の山中」と書かれており、やはり森の中を進んでいかなければいけないようです。
ここでふと頭をよぎったのが「熊が出たらどうしよう…」ということでした。全国各地での熊出没のニュースを耳にしていましたのでとても不安になったのです。しかし、ここまで来て引き返すということにどうしても納得がいかず、不安を断ち切って森の中に進んでいくことにしました。時折大きな声を出しながら歩いていたので、もし途中で人に会ったらかなり怪しいヤツに見られたでしょうね(笑)

…で、たどり着いたのが下の写真の場所です。 見ての通り森の中で、残念ながら徳川軍がいたであろう方向を見ても何も見えませんでした。よく考えればこのような風景になっていることは容易に想像できたはずで、熊の不安に怯えながら歩いてきたことを、少しだけ後悔したのです。だって、同じ道を引き返さなければいけないんですよ…😢 しかし、450年前にこの場所に武田勝頼がいて、彼自身の運命を大きく変える戦いの様子を見ていたと考えると、何とも言えない気持ちになり、やはり来てよかったと思い直したのでした。

いろいろと勝手な考えをめぐらせてきましたが、そもそも勝頼が決戦を避けるという選択肢はなかったのでしょうか? 少なくとも、織田軍と武田軍に兵力の差があるという情報くらいは届いていたと思うし、その上で馬防柵を見れば、明らかに不利な戦いであるということはわかるのではないかと思うのです。通常、城攻めには敵の3倍の兵力が必要だと言われています。諸説ありますが、織田軍の兵力は武田軍の2倍ほどあったといわれています。

長篠の戦いという名は、武田軍が長篠城を攻めたことがきっかけとなっていることに由来します。両軍の決戦がおこなわれた場所は「設楽原しだらがはら」という場所なので、この戦いを「長篠・設楽原の戦い」ということもあります。

設楽原に陣を敷いた武田軍に対して、信長は正面から挑むだけでなく、もう1つの作戦を仕掛けていました。長篠城の周囲には、城攻めのためにいくつかのとりでが築かれていて、そのうちの1つが鳶ヶ巣山とびがすやま砦でした。信長は、家康の家臣だった酒井忠次に命じて、この砦を急襲させたのです。鳶ヶ巣山砦が敵の手に落ちたことにより、武田軍は退路を断たれることになります。軍を撤退させようと東に向かっていけば、長篠城と鳶ヶ巣山砦からの攻撃を受けることになるでしょう。勝頼は、撤退して戦うくらいならば正面の敵と戦った方がいいという考えを持ったかもしれませんね。

前年の高天神城での遅延から、馬防柵、陣の配置、鳶ヶ巣山砦の急襲と、これがすべて信長の計画通りに進んでいたのだとすれば、長篠の戦いは、武田との戦いの決着をつけようと決意していた信長が、念入りに準備をして臨んだ戦いだったということにもなります。敗北した武田勝頼が愚かだったという見方もあると思いますが、それを辿るしかない道筋をつけた信長が優れていたのだということでしょう。そういう意味では、やはり信長は天才なのかもしれません。武田家の敗北は、信長によって用意されていた敗北ということなのです。

最後に訪れたのは、この戦いで命を落とした武田軍の武将、山県三郎兵衛昌景やまがたさぶろうびょうえまさかげの墓碑です。〝山県の赤備え〟は武田軍の再精鋭部隊でした。軍装を赤一色に統一した山県隊は、その姿を見ただけで敵が震え上がったといわれるほどの強さを誇っていました。武田軍の最も左側にいた山県隊は、真っ先に徳川軍に攻めかかったことでしょう。そして、信長の仕掛けた罠に陥り、昌景自身も壮絶な討ち死にを遂げることになりました。

信玄以来の精鋭部隊を率いた昌景の死は、武田家滅亡の序章と言えるのかもしれません。石碑の前でそっと合掌し、この場所で散った多くの命に思いを馳せながら古戦場を離れたのです。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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