~岐阜県大垣市 水の都の歴史を辿る編~
2024.11.29
みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。
岐阜県大垣市は濃尾平野の北西部にある、人口約15万7千人の岐阜県第2の都市です。県庁所在地のある岐阜駅から電車の乗ると3駅、およそ13分で到着します。この間には前回紹介した木曽三川の長良川と揖斐川が流れています。
大垣という名と聞いて、昭和世代の方のなかには〝大垣夜行〟とよばれた列車を思い浮かべる方もいるでしょう。東京駅を夜の11時半ごろに出発して大垣駅には翌朝7時半くらいに着きます。そのまま先の列車に乗り継ぐことで関西方面に格安の旅行ができる列車で、私も学生のころに利用したことがあります。
まずは上の地図を見てください。大垣市を赤色で表しているのですが、なんと市域が3分割されています。以前のブログ(群馬県桐生市 分割された〝関東の西陣〟編)で、2つに分かれた群馬県桐生市を紹介しましたが、大垣市はそれ以上に不思議な姿をしています。なぜこのような形になってしまったのでしょうか?
2000年代の初めごろ、政府が主導する市町村の合併が進められました。これを〝平成の大合併〟といいます。合併により地方自治体の規模を大きくし、財政基盤の強化や地方分権を推進しようとしたのです。全国で多くの市町村が合併しましたが、この地域でも大垣市とその周囲にある9つの町(養老町・垂井町・池田町・神戸町・安八町・輪之内町・関ケ原町・上石津町・墨俣町)の合併が検討されていました。大垣市以外がすべて「町」であることからもわかる通り、9つの町の規模は大垣市とは比較にならないものでした。最も人口の多い養老町でも、当時の人口は大垣市の5分の1を少し超えるくらいだったのです。当然のように大垣を中心とした合併が進められたのですが、次第にそれぞれの町のなかに不満が募っていきました。それでも協議が続けられ、間もなく合併実現となったとき、なんと安八町が突然離脱を決めてしまいました。これにより合併の話は最初からやり直しとなり、結果として大垣市から少し離れた墨俣町と上石津町だけが合併することになったため、このような三分割の市になってしまったのです。地図中の真ん中、大垣駅があるところが旧大垣市、西の飛び地が旧上石津町、東の飛び地が旧墨俣町です。
大垣市は古くから城下町、宿場町として栄えていました。ここからはそんな大垣の街を散策していきましょう。みなさんも下の地図を見ながら読み進めていってください。
散策の前に地図を眺めていたところ、1つ気づいたことがありました。
大垣駅のおよそ2㎞南に東海道新幹線が通っているんですね。岐阜県内の駅としては岐阜羽島駅がありますが、この駅がある羽島市の人口は約65000人で、大垣市の半分にも及びません。県内最大都市である岐阜市に関しては、新幹線のルートをかなり北へ迂回させなければならないという事情で駅が設置されなかったということですが、県内第2の都市大垣は市内に新幹線が通っているのです。ここに駅を設置できれば、岐阜羽島駅よりも利便性は高かったように思えるのですが…。
調べてみたところ、大垣の地盤が軟弱で駅の設置が難しかったという理由を見つけることができました。でもこれは納得できないですよね。実際に新幹線が通っていて、たくさんの列車が猛スピードで疾走しているわけですから。
あくまでも私の想像ですが、ルートの関係で新幹線駅を設置できなかった岐阜市からの声があったのではないかと思います。県内第2の都市である大垣に新幹線駅ができれば、それが市の発展の起爆剤になるかもしれません。新幹線駅の設置によって両市の立場が逆転してしまうことを、岐阜市が警戒したのではないでしょうか。そこで、両市の妥協点として設置されたのが岐阜羽島駅ではないかと考えたのですが、真相はいかに…?
前置きが長くなりましたが、まずは大垣駅から大垣城を目指しました。
この城は、関ヶ原の戦いの直前に石田三成が入城し、西軍の拠点となっていたことで知られています。戦いの舞台となった関ヶ原は、大垣城から西へ15㎞ほど進んだところにあります。
東から軍を進めてきた徳川家康率いる東軍は、大垣城の北西にある赤坂に陣を敷きます。そして、そのまま軍を西に進めて、石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県彦根市)を狙う様子を見せます。その進軍を止めるため、三成は大垣城を出て関ヶ原で東軍を迎え撃とうと考えたのです。
これはおそらく家康の作戦でしょう。以前に紹介した三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の誘いに乗った家康が浜松城を出て戦った結果大敗していますよね。大垣城を攻め落とすにはそれなりに時間も手間もかかります。三成を大垣城から関ヶ原に誘い出したことが、家康勝利の第一歩だった気がします。
大垣城の天守は、太平洋戦争中の空襲で焼失しているので、現在の天守は復元されたものです。でも、そうした歴史を踏まえて見上げると、なかなか立派な姿に見えてくるのです。
大垣城からさらに南へ歩き、大垣宿本陣跡に向かいました。
大垣は、東海道の宮宿(名古屋市)と中山道の垂井宿(岐阜県垂井町)を結ぶ美濃路の宿場町として栄えていました。大垣は、城下町であると同時に宿場町でもあったんですね。駅前の大通りから少し入った細い道が昔の街道だったようで、その道を少し進んだところにあったのが下の写真の建物です。残念ながらこの日は休館日で、中を見ることはできませんでした。おそらく江戸時代のこの周辺は、多くの店などがあって栄えていたと思いますが、今は静かにその姿を留めています。
宿場町として陸上交通の拠点だった大垣は、水上交通の拠点でもありました。
大垣の街には水門川という河川が流れており、この川を南へ下っていくと、木曽三川の1つである揖斐川と合流します。江戸時代には、大垣と桑名(三重県)を結ぶ舟運がさかんにおこなわれており、さらに伊勢湾を渡って名古屋方面との航路も開かれていたようです。『奥の細道』の旅を大垣で終えた松尾芭蕉も、ここから船に乗って桑名に向かったそうです。大垣市内には「奥の細道むすびの地記念館」という施設もあり、水門川沿いには芭蕉の像もありました。記念館のそばには、下の写真の船町燈台と当時の川船が復元されており、芭蕉が見たかもしれない風景を偲ぶことができます。
今度は北へ向かって歩き、大垣八幡神社に向かう途中で、下の写真の不思議な石碑を見つけました。
被爆地といえば広島と長崎なのですが、なぜこんな石碑があるのでしょうね?
調べてみたところ、1945年7月24日に〝模擬原爆〟が投下されたことを示す碑だとのこと。模擬原爆というのは、長崎へ投下された原爆と同じ形状でつくられたもので、その姿からパンプキン爆弾とも呼ばれていたそうです。広島と長崎への原爆投下の前に、爆撃機乗組員の訓練やデータの収集を目的として、日本各地の都市に投下されたのだそうです。模擬とはいえ爆薬を積んでいるのですから当然殺傷能力はあり、これによって400名もの尊い命が失われました。ここ大垣でも10名以上の方が命を落とされたそうです。広島と長崎の原爆投下については学んできましたが、このようなことがあったというのは今まで知りませんでした。原爆そのものもあってはならないことですが、こんな人間を使った実験みたいなことで多くの人命が奪われたという事実に、強い憤りを感じたのです。
気を取り直して散策を続けましょう。
次の目的地だった大垣八幡神社に到着し、鳥居をくぐってすぐのところにあったのが、下の写真の湧水です。写真ではわかりにくいかもしれませんが、かなりの水量が湧き出ていました。左上にあるペットボトルは、この水を汲みに来た地元の方のものです。
大垣は〝水の都〟といわれるくらい湧水の豊富なところなのです。
大垣市のある濃尾平野というのは東から西に向かって標高が低くなっています。たしかに木曽三川も濃尾平野の西のほうに寄っていますよね。3つの川の川床の高さも、いちばん東にある木曽川が最も高く、いちばん西にある揖斐川が最も低くなっているのだそうです。地下水もその傾きによって濃尾平野の西に集まるため、平野の北西部にある大垣市には湧水が数多く見られるのだそうです。日常的においしい湧水が手に入るところに住んでいる人たちってうらやましいですよね。
少しでも〝水の都〟の恩恵にあずかろうと、駅前の老舗和菓子屋さんに入りました。そこでいただいたのが、大垣の名物となっている水まんじゅうです。水まんじゅうは透明な皮で餡を包んだ夏の和菓子で、夏場にはスーパーやコンビニでも買うことができます。しかし、大垣の水まんじゅうは上の写真のように冷たい氷水に漬けて提供されます。まさに水の都ならではのひんやりスイーツですね。このような形で出されるものなので、お土産にできないのがちょっと残念でしたが、冷たい水まんじゅうは暑い大垣の街を歩いた後の私を心地よく冷やしてくれたのでした。
「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。
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