白井亨(しらいとおる)

~静岡県浜松市 出世大名の敗北編~

2024.11.08

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

静岡県最大の都市である浜松市は、楽器の生産がさかんな都市としてテキストにも登場しています。
浜松の楽器づくりが始まったのは明治時代のことで、ヤマハの創業者である山葉寅楠やまはとらくすが、輸入されたオルガンの修理をしたことから始まります。それをきっかけにオルガンの製造をするようになった山葉寅楠は、1900年には国産ピアノ第1号を完成させました。その後、山葉寅楠のもとでピアノづくりをしていた河合小市かわいこいちが河合楽器を設立し、浜松にピアノの2大メーカーができたのです。現在、ピアノの世界シェア第1位はヤマハ、第2位は河合楽器となっています。新幹線浜松駅の改札内には下の写真のような場所があり、新幹線で浜松を訪れた人々が気軽に楽器に親しめるようになっています。
また、浜松駅近くにはアクトタワーという45階建て、地上212.8mの高層ビルがありますが、このビルのデザインもある楽器をイメージしたものになっているんですよ。

さて、そんな楽器の都市浜松ですが、歴史が好きな人は徳川家康を連想する人も多いでしょう。そもそもこの浜松という地名は、家康によって名付けられたとも言われているのです。もともとこの地は〝曳馬ひくま〟と呼ばれていましたが、「馬を引く」ことが「戦での敗北」につながるということから、浜松に改めたのだそうです。曳馬という地名も市内に残っており、遠州鉄道の電車に乗って新浜松駅から5つ目には曳馬駅という駅もあります。
浜松市のマスコットキャラクターとなっているのも〝出世大名家康くん〟で、もちろん徳川家康をイメージしたものです。浜松の駅前には下の写真のようなものがつくられていました。個人的には、可愛らしい感じの家康にはちょっと違和感があるんですけどね(笑)
この写真ではわかりにくいですが、家康くんの頭に乗っかっているのは、浜松名産のうなぎです。浜松駅のバスターミナルからはこの家康くんの後ろ姿を見ることができ、うなぎのちょんまげも確認できますよ。

徳川家康が、それまでの居城だった岡崎城(愛知県)から浜松城に移ってきたのは1570年、29歳のときでした。45歳のときに駿府城(静岡市)に移るまでの17年間、浜松城は家康の本拠地となっていたのです。この間には、長篠の戦い、本能寺の変、小牧・長久手の戦いなどがあり、家康はそれらの戦いを経て着実にその力を伸ばしていきました。ですから、浜松城は〝家康出世の城〟とも言われており、キャラクターの名も〝出世大名〟となっているんですね。

家康が浜松に居城を移した理由は、下の地図を見ればはっきりわかります。
浜松城は、天竜川によってつくられた平地の西にある台地の上に築かれています。これは明らかに東の方向に対しての備えですよね。その東の方向には、戦国最強とも言われた武田信玄がいるのです。信玄と家康は、遠江(現在の静岡県西部)の支配をめぐって対立していました。家康は、武田信玄に対する最前線となる浜松を居城とすることで、この地域での勢力の維持、拡大を図ったのでしょう。

その信玄と家康が直接対決することになったのが、1572年に起こった三方ヶ原の戦いです。
大軍を率いて家康の領地に侵攻した武田軍は、次々と徳川方の城を攻め落としていきます。そして、天竜川沿いの二俣城を攻略した信玄は、ついに家康のいる浜松城に向かって進軍を開始します。兵力差が2倍以上あったとも言われる武田軍に対し、家康は浜松城での戦いに備えます。

しかし、浜松城の攻撃に向かうように見えた武田軍は突然進路を変更し、城に籠る家康の存在を無視するかのように三方ヶ原に向かって軍を進めていきます。よく言われている説は、浜松城を素通りされたことに怒った家康が、家臣たちの反対を押し切って武田軍との決戦に挑んだというものです。でも、個人的にはこの説には違和感を覚えます。このときの家康は31歳になっており、いくつかの大きな戦いも経験しています。どちらかというと慎重に事を進めるタイプの家康が、一時の怒りに任せて無謀な戦いに挑むというのがイメージできないのです。
このような説もあります。信玄が西に進んでいくと浜名湖に面した堀江城が攻撃の対象になります。堀江城を抑えられてしまうと、浜名湖の水運を利用した西からの補給路が断たれてしまうことになるので、それを阻止するために出撃したというものです。家康の本拠地は西の三河(愛知県)ですから、この方面からの補給ができなければ、結局のところ浜松城は孤立してしまいます。それを防ぐためには三方ヶ原での決戦を選ぶしかなかったということです。これなら家康が出撃した理由としても納得できるし、信玄ならこのような巧妙な戦略を立てたのではないかということも十分に納得できる気がします。

信玄の作戦によって家康は戦いを挑まざるを得なくなってしまった。しかし、兵力差を考えると圧倒的に不利な戦いになる。家康は怒りをあらわにすることで家臣たちの士気を高めようとした。こういう流れで三方ヶ原の戦いが起こったのではないかと、三方ヶ原へ向かうバスの中で勝手に想像してみたのです。

三方ヶ原古戦場には、浜松駅からおよそ40分で到着しました。この場所には、下の写真のような石碑が建てられていましたが、石碑に刻まれた文字をよく見ると、三方ヶ原ではなく〝三方原みかたばら〟となっています。地図を見てみると、このあたりの地名も三方原です。なんで微妙に地名が変わっているんでしょう? 浜松の人々にとってヒーロー的な存在の家康が敗北した地名を、そのまま残したくなかったのでしょうかね?

石碑が建てられているこの場所で激しい戦いが繰り広げられたと思ってしまいますが、実際には三方ヶ原の戦いがどのあたりでおこなわれたかということについては、はっきりとわかっていないそうです。周囲を見渡すと平坦な地形が広がっていて、このあたりのどこが戦場になったかは特定しにくそうです。
通説では、武田軍が三方ヶ原の台地から〝祝田ほうだの旧坂〟を下って行ったという報告を受けた家康が、それを背後から追撃しようと出ていったところ、武田軍が万全の布陣で待ち構えていたとされています。そのときに信玄が本陣を構えたのが、地図中にある〝根洗の松〟のあたりだということです。

当時の道は、現在の国道257号線はよりも少し西側を通っていたようで、根洗の松から国道を離れて進んでいくと、下の写真の祝田の旧坂に辿り着きます。写真では伝わりにくいかもしれませんが、傾斜の急な細い坂道がしばらく続いています。周囲の木々によって少し薄暗く、人の気配のない坂を下っていくのはちょっとだけ勇気が必要でした。
ここを大軍が通過するには相当の時間がかかりそうですから、家康はその間に追い付いて攻撃ができると予測したのでしょうね。しかし、浜松城からここまでは10km以上ありますので、その間に信玄は軍勢を整えたのでしょう。浜松城を攻撃するには時間もかかるし犠牲も大きいはずです。信玄は初めから家康をおびき出して野戦に持ち込むつもりだったのだと思います。三方ヶ原の戦いは、すべて信玄の書いたストーリー通りに進み、徳川軍は大敗します。家康自身も命からがら浜松城に逃げ込んだそうです。信玄の誤算は、戦いが始まったのが夕刻だったことでしょう。日没がもう少し遅かったら、もしかすると家康は捕まっていたかもしれません。

三方ヶ原の南には〝小豆餅〟というちょっと変わった地名があります。この地名は、戦いに敗れて空腹だった家康がここにあった店で小豆餅を食べ、慌てていたためにお金も払わずに行ってしまったという話が由来なのだそうです。三方ヶ原での敗北が、家康にとっての大ピンチだったことがよくわかるエピソードですね。ちなみに、この南には〝銭取〟という地名がありますが、小豆餅屋のおばあさんが家康に追いついて代金を徴収したことが由来だそうです。

家康は、戦いに敗れた自身の姿を絵に描かせました。情けない姿を記録しておくことで、同じ過ちを二度としないようにしたのだそうです。武田氏はその後滅亡してしまいますが、家康はその旧家臣たちを召し抱えます。自分をコテンパンにした信玄のやり方を学ぼうとしたということですよね。こういったエピソードからは、やはり家康という人物が只者ではないことがわかりますね。
彦根城のゆるキャラとして有名な〝ひこにゃん〟は赤い兜をかぶっています。これは、徳川氏の有力な家臣で彦根城主だった井伊氏の軍隊をモチーフとしています。井伊氏の軍隊は〝井伊の赤備え〟と言われ、敵からも恐れられていたそうですが、実はこのルーツも武田氏にあります。武田の有力家臣だった飯富おぶ虎昌とらまさ、その弟の山県昌景やまがたまさかげが率いた〝武田の赤備え〟は、戦国最強の武田軍の最精鋭部隊だったそうで、赤い色を見ただけで敵の戦意が喪失したという逸話もあるそうです。

いずれにしても、失敗から学んだ家康は、見事に天下人に出世していったのです。

最後に、家康の居城である浜松城の話をしましょう。
下の写真が浜松城の天守ですが、何かおかしなところがありませんか?

そうなんです。天守台の石垣の大きさと天守の大きさが合ってないんですよ!
この建物は、募金活動によって集まった費用をもとに1958年に復元されたものです。おそらく費用の都合でこのようなアンバランスなものになってしまったのでしょうが、それにしても残念としか言いようがない姿です。右側の角に少し出っ張ったところがありますが、これは石落といって天守に迫る敵を上から攻撃するためのものです。当然ですが、天守の四隅になければその効果はかなり失われてしまいます。少しでも昔の姿に近づけたかったのかもしれませんが、中途半端に片側だけつくったことが全体の形をさらに不格好なものにしています。マスコットキャラクターの〝家康くん〟も、さぞ残念に思っていることでしょうね。
徳川家康というと、日光東照宮のような立派な建築物をイメージすることも多いと思います。もちろん、あんなに豪華である必要はありませんが、せめてもう少し出世大名にふさわしい姿になってほしいなぁ…と思いつつ、暑かった浜松の街を後にしたのです。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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