白井亨(しらいとおる)

~千葉県習志野市 湿っぽい地名の由来編~

2024.04.12

みなさんこんにちは。
リンスタ社会科担当の白井です。

前回のブログの後半で、船橋市と習志野市の境にある津田沼駅の話をしました。2つの市が合わさるところにあるこの駅の名前も、実は3つの集落の地名を合わせたものなのです。3つの文字すべてが低い土地や湿った土地を想像させる文字ですね。でも、現在の津田沼駅を見る限り、低い土地のイメージはあまり感じません。今回は、この地名の成り立ちについて探っていきたいと思います。

まず、3つの文字の中でいちばん湿ったイメージのする「沼」ですが、これは「鷺沼」という地名から来ています。下の地図を見てください。

地図中にある鷺沼古墳の西側に、南西から北東に伸びる低地があります。このあたりの低地と鷺沼古墳のある台地の住所が鷺沼となっています。おそらく、低地の部分がもともとの鷺沼でしょうね。昔のこの低地には水田が広がっており、地名の通りの鷺がやって来る沼もあったかもしれません。低地は水害の危険も多いので、この地域の権力者は古墳のある台地上で生活していたのでしょうね。また、現在の国道14号線の南側はすぐ海だったので、海から見えるように古墳を築いたのかもしれません。いずれにしても、この地域には水田耕作を生業とした人々の暮らしがあったことは間違いないでしょう。

次に、津田沼の「田」ですが、これは「久々田くぐた」という地名の1文字を用いたものです。下の写真は、地図中にある菊田神社です。9世紀前半の創建とされるこの神社は、古くからこの地域の守り神として信仰されてきました。江戸時代に、名称が現在の菊田神社になったそうですが、それまでは久々田大明神と称していたとのことです。余談ですが、この神社にある狛犬がちょっとユニークなんです。表情と手の形が志村けんさんの〝アイーン〟のポーズに似ていて、〝アイーン狛犬〟という愛称もついているとのこと。近くに立ち寄った際には、ぜひその姿を確かめてみてください。

しかし、現在この地域のどこにも久々田という住所がありません。唯一見つけられたのが、下の写真の公園でした。敷地は広いものの、住宅地の中にひっそりとある公園という感じで、由緒ある地名の名残としては少々寂しい気がしました。

確認してみると、菊田神社も久々田公園も、このあたりはすべて津田沼という住所になっています。先ほどの地図をもう一度見てください。最初に紹介した鷺沼に比べて、このあたりの低地は明らかに面積が広いことがわかります。面積が広いということはそれだけ多くの水田があり、多くの人々が暮らしていたということでしょう。つまり、かつての久々田は、この地域の中心だったということではないでしょうか。中心だったからこそ、新しくできた津田沼という地名に置き換えられ、元々の地名が消滅してしまったのでしょう。なんとも皮肉なことです。
同じ津田沼駅でも、JR津田沼駅と京成津田沼駅の間は1㎞ほど離れています。習志野市の玄関口として賑わっているのはJR津田沼駅のほうで、京成津田沼駅周辺はちょっと寂れた印象があります。でも、元々の津田沼の中心は京成津田沼駅周辺だったということですね。そういえば、習志野市役所も京成津田沼駅が最寄りです。

最後に、津田沼の「津」の由来となった「谷津やつ 」について見ていきましょう。
谷津は、京成電鉄の駅名にもなっており、周辺の住所にも谷津という地名が見られます。谷津というのは関東地方や東北地方の台地によく見られる地形で、丘陵地が長い時間をかけて侵食されてできた谷状の湿地のことです。地域によってその呼び名は微妙に異なっており、東京や神奈川では谷戸やと、東北地方では谷地やちというそうです。

谷津の地形を、上の地図で確認してみましょう。
谷津駅の東側の線路沿いに、少し低くなっている谷状の土地があることがわかります。このあたりが谷津とよばれた地域だったのでしょうか。前述した鷺沼や久々田に比べると、ずいぶん狭い土地に見えますね。津田沼の地名の由来となった3つの集落の1つなのですから、もう少し規模が大きくてもいいような気がします。
そこで、もう一度地図をよく見てみると、JR津田沼駅の西のほうに、少し低くなっているところがあるのに気がついたのです。このあたりは、奏の杜という新興住宅地となっており、大きなマンションが立ち並んでいるところです。この地区の開発が始まったのは2021年代のことで、それまではあたり一面畑が広がっているだけのところでした。津田沼駅からほど近いところなのに、なぜ最近になるまで開発がされていなかったのか、考えてみれば不自然な気がします。

下の写真は、JR津田沼駅から南へ向かい、大きな交差点を右に曲がって習志野市立第一中学校方面を見たものです。少しわかりにくいかもしれませんが、下り坂になっているのがわかるでしょうか。

実は、大正時代ごろまで、ここには庄司が池という池があったそうです。池の周辺は水を得やすいので、おそらく周辺には水田が多くあったのではないでしょうか。第一中学校の脇に、庄司が池があったことを示す案内板があったのですが、開発の進んだ周辺の風景からはその様子を伺い知ることはできません。何か痕跡はないかと思い周辺を歩いてみたところ、下の写真の公園を見つけたのです。

写真奥のマンションを見てください。土台の部分が、明らかに公園よりも低い位置になっていることがわかりますね。この写真と先ほどの地形図から、おそらく庄司が池はこのマンションのあたりから第一中学校のあたりにかけて存在していたことが推測できます。庄司が池は、大雨のたびに水があふれてしまうような池だったため、大正時代に水を抜く工事がおこなわれました。もともと池だったこの土地の地盤は緩く、住宅地として利用するには不向きだったのでしょう。だから、津田沼駅から近いところであるにも関わらず、長いこと開発がされなかったのです。現在は奏の杜という住所になっているこの地域も、以前は谷津の一部だったのです。

「?」はきっとそこにある
「?」を知ればおもしろい!
みなさんも、身近な「?」を見つけて楽しんでみてください。

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